SINO
07.SINO
Messenger(Cyclex)

Interview by messengerbag.jp
Photo by Jun from messengerbag.jp
取材日:2008年8月24日
「Cyclex」で現役メッセンジャーとして走っているSINO。
過去に自分の夢を気持ちとは裏腹にあきらめざるえない時があった。
時は経ち、メッセンジャーの世界大会に参戦するようになる。世界ではとにかく速い日本人がいると有名になるも、ずっと"置き忘れてきた情熱"を燃焼できないままでいた。2008年6月ついに日本人初優勝を手にしたSINO。時折、優しい笑顔を見せながら、彼の人生を語ってくれた。
― まずは*1)CMWCトロント大会での優勝おめでとうございます。優勝していかがでしたか?
ありがとうございます。一番最初に感じたのは「気持ちいいー!!」ですね。
まさにマスターベーションだな。自分に掛けていた全ての重圧からいっきに開放されて、終わったっていうのは変だけど肩の荷が下りたのかな。

*1)Cycle Messenger World Championshipsの略。年に一度世界の都市で行われるメッセンジャーの世界大会。今年は6月にカナダのトロントで行われた。

― CMWCに初めて参戦されたのは2005年のニューヨーク。その時はいかがでしたか?
レース的な面で言うと「意外といけるんじゃない?」みたいな。
実は予選落ちだけど(笑)。それはちょっとコースを間違えただけで、もしかしてスピード的には戦えるレベルにいるんじゃないのかなって思いました。と同時にもっと経験しないど全然ダメだなと。英語も必要だなと。でもロクに勉強してないんですけど(笑)。

イベントトータルで見るとレースレースしてるわけではなくて、大会を楽しむというか、みんなが集まる事にまず意義がある、というのを感じました。

昔自分がカートレースに出てた時はそういう感覚がなかった。
勝負だけの為に来ているから、もっとギスギスしているし、みんな緊張してるんだけど、CMWCはすごくリラックスしてますね。僕は初めてだったから、*2)KYOTO LOCOで会った海外の連中しか知らなかったんだけど。周りを見ると1年ぶりの再会をしている人が何人もいて、すごく温かいイベントでした。

*2)2002年から京都で開催された伝説的なメッセンジャーイベント。今年11月に3年の時を経て復活する。

― 今回で4回目の参戦だと思いますが、どうですか?変化とか?
やっぱりレースを勝ちに行く事をメインに考えていたので、その辺は変わりないですが、運営面だと年々イベントがルーズになって行きますね。時間やスケジュールとかNYの時もそうだったんだけど、常に2時間おすんですよ。次いつ何をやるのかさっぱりわからない状態。それが当たり前みたいに思っていないと、日本人的感覚かもしれませんがイラッとしてしまう。

翌年のシドニーも時間がおしましたね。ダブリンの時はもっとひどくて、エントリーすると必ずもらえるスケジュールや、ガイドブックが無く、何をいつやるのか全くわからない状態でした。なかなか世界戦のリズムに乗りにくいですね。毎年、違う国で違う人たちが運営をしているから、時間軸がいつもめちゃくちゃです。

― 精神面でもだいぶこの4年間で経験値を積み強くなったと?
そうですね。
とにかく予想以上に疲れて、英語も分からなければ知識もなくて、何も出来ない感じ。色んな面で日本と違うじゃないですか。例えば自販機が無いし、トイレはまず無いし。そういった部分でも微妙に精神的に疲れて負担になってしまう。
NYの時はお酒もタバコも止めていて、それが今思うと馬鹿らしかった。CMWCはもっと和やかな雰囲気なんで、毎晩パーティーがあるし、メインレースが終わるまでお酒を飲まないっていうのも、何しに来たか分からないみたいな部分がありました。

僕が行った今までのCMWCはみんなルーズ。NY、シドニー、ダブリン、トロントときて、ずっとルーズで、もうそういうものだと分かっているからストレスにならないし、向こうに行ったらスイッチが切り替わりますね。

トロントも結局、予選は4、5時間おしましたし、普通はエントリーの時に付いてくるはずのコースマップがスタートの1時間前まで配布されないし。 適当に自分の感覚で、「そろそろ配ってんじゃない?」と思ってスタートポイントに行ったら、実際に配ってた。自分に何か世界戦の時間軸みたいなものが感覚としてちゃんと備わってきているんですよね。

― 元々レースに興味があったのですか?
元々モータースポーツに興味がありました。今思えば、レースなら何でも燃えます。
 

― カートレースをされていたのはいつ頃ですか?

始めたのは中学卒業してからだけど、簡単に始められた訳ではなかった。そんなに裕福ではなかったのが一番の原因でしょう。小6の時に始めてF‐1をTVで観てからずっと親を説得し続け気がつけば中学を卒業、始めるまでに4年もの時間を費やしてしまった。今思えばこの時から4という数字に縁があったのかなぁ???

レースを始めてからもとにかく資金不足との戦いだった。夜間高校に行くも半年もしない間にやめて、気がつけば睡眠時間なんてないに等しいほど働いてましたね。速くなることよりも走る環境を作ることが凄く大変でした。

― その"4"という数字について詳しく聞かせて下さい

カート時代にしこりの残った数字ですね。
まずカートレースの地方選手権でシリーズ4位だった。予選前のタイムアタックで雨で出遅れて、ペナルティで決勝6番手ぐらいからスタートになったんですけど、前に佐藤琢磨がいたりして、3周ぐらいですべて抜いたんですよ。抜いて次のコーナーでぶつけられて、結局再スタート出来たんだけどみたいな感じで、何回もトップ争いをしていたんだけど、そのシリーズが4位だった。

自分の中ではトラウマがあって、スピードがあるけど勝てない。

翌年も全日本選手権に出たんですけど、全く資金がなかったので、一年目はズタズタ。予選落ちも何回もしたし、その時に辞めようかな思ったんだけど。当時同じチームの人が「夢を諦めない方がいい」と言ってくれて、それで立ち直って。朝から24時間働いて何とかして資金作って、練習して、次の年また全日本選手権に出るんですけど。そこで第一戦、予選一位でポールポジションとったんだけどまた決勝は4位だった。

4位は何かしこりが残るんですよね。表彰台にも立てないし、雑誌も取り上げないし、苦い思い出が凄くありました。

で、忘れた頃に06年のシドニーのCMWCに出て終わった時にも思ったんです。あの地方選手権の時も、全日本選手権も4が邪魔をして、でまた今回も4位で俺は何なんだって。でもその時は偶然だと思っていたんだけど07年のダブリンでまた4位。これは超えなきゃいけないなって強く思いましたね。みんな知らないけど、それが凄くデカイ重圧でした。速いんだけど結果が出せない。世界戦も今回4回目なんで、自分が速いのは当然海外のメッセンジャーは知ってるし、また速いけど勝てない男になっちゃうのかなって。それが自分に掛かった重いプレッシャーでした。

― メッセンジャーを始めたキッカケは?
レースをやっていたので土日休みで、体を動かす健全な仕事をしたかった。前職で(カートレースの資金を稼ぐのに)無理してたんで、体を動かしながら鍛えられる仕事で、当然稼がなくてはならない、そういう部分でたまたま希望に合ったので。

正直メッセンジャーってどんな仕事か分からなかったんです。横文字すぎちゃって(笑)仕事の内容よりも稼ぎと土日休みが重要でした。完全週休2日で歩合制だったんですよ。で募集していた会社に電話して「いくら稼げるんですか?」って聞いたら稼げる人は○万ぐらいって言われて、じゃあ稼げる人になってやろうってことで。面接行って初めてメッセンジャーが配送業務って事をしりましたね。(笑)

そこで*3)木村さん(Cyclex代表)と出会うんですけど、新人研修があって、最初木村さんに「使えねー」って言われました。(笑)

その時、木村さんが背負ってたオルトリーブにF1とかのシートベルトで使うパッドを付けてたんです。僕もF1目指してたのでそのメーカーを知ってるし、何かかっこいいなってそれだけで思っちゃったんです。何だか分からないけどこの仕事は面白そうだなって思いましたね。

面接があって、その後走行研修があるんですけど、それに受からないと配属されないんです。最初木村さんについて行って、その後一人で走ってという流れなんですけど。木村さんについて行った時はペースが結構ゆっくりだったんですよ。で何だ楽勝じゃんて思って、そのペースで走ってたら「そんなんじゃ全然ダメ」って怒られて、「えっ!さっきこのぐらいのペースじゃなかった?」みたいな(笑)
で木村さんが「俺がもう一回前にでるからついてきて」って言って、メチャクチャ飛ばされたんです。また前に出て走って、その時出せる力を頑張って出したんですけど、その後に「お前使えねー」って言われてガーンでしたよ(笑)

けど「お前はスピードはあるが粗削り過ぎる。しかし、本当にやりたいという気持ちがあるならOKにする」って言われて「やります」って即答でした。まぁ使えねーって言われて引き下がれるタイプでもないんですけどね。

*3)木村信一・・・SINOが所属するメッセンジャー会社サイクレックス代表。自身が手がけるメッセンジャーバッグブランドRESISTANTの代表でもある。

― メッセンジャーをはじめた時の苦労話しなどはありますか?
パンク修理が出来なかった。その時はいえなかったけど、何とかやろうとするんだけど、パッチが貼れなくて。最初の2、3ヶ月はパンク修理が嫌で、パンクしたら1日何とかそれで走って、仕事終わったら自転車屋に持って行って。結構ひどいメッセンジャーでしたね(笑)
― 当時所属してた会社でバイク便を抜いて月間売上No1を取った時の原動力は?
やっぱりカートレースに直ぐ戻りたかったから、それが原動力として一番強かったですね。24時間働こうが苦にならなかったんで、多分思考回路がイカレてましたね。休もうという考えが無かった。休む時間があったら、働く。少しでも稼ぐことしか考えてませんでしたね。
 

でもいつしかメッセンジャーって仕事に対して何か考えるようになってきて長く続けようと思った。少し社会人的な事を考えるようになったのがメッセンジャーからなんですけどね。

月間1位になっても、それを1年ぐらい続けないと借金が返せなかった。
1位になった時は結構稼いだんですけど。当然毎月そんな額を作れたわけじゃないし、まだメッセンジャーやりたてで3ヶ月か4ヶ月目ぐらいで売上1位になったんだけど。すごく過酷だった。全くプライベートの時間がないし。
昔レースやってた時は何時間働いても、土日にはレースをやれるっていう自分の発散できる場所があって、働いた分返ってくるものがあったんだけど。でもその時は働いても返ってくるものが無くて、借金を返す喜びぐらいしか無かった。

それに段々息詰まってきて、その会社の社風に合わなくて、ノースリーブがダメだとか、茶髪がダメだとか、ヒゲがダメだとか。自分自身大ざっぱなので、性格が合わないというか。走っている同じ無線のチームメイトとも正直合わなくて。

この仕事はお客さんの急いでほしいという要望に応えて、はじめて達成感があると思うんですけど。ガッツキ過ぎって言われた事があって、それが凄くしゃくにさわって。俺は自分の稼ぎだけの為にハングリーにやっている訳ではなく、メッセンジャーという仕事の意味を大事に考えてやっていたつもりなのに同じチームメイトからそれじゃ俺らが稼げないみたいな事を言われて、そんな理不尽なことを言うやつらがいる会社にいたく無くなっちゃって、それで辞めちゃったんですよね。

― Cyclexに入った経緯は?
辞める1ヶ月ぐらい前に悩んでいて、結構木村さんに相談してたんです。木村さんが自分の中で魅力のある人で何か面白い人だなと思ってて、自分がレースやってた話や、「独立しないんですか?」みたいな話をよくしてたんですよ。

そしたら「実はそんな野望もある」みたいな。じゃあ辞めましょうよみたいに言ってたんですけど、もちろんその時は木村さんの立場上直ぐにそんな行動は起こせる訳もなく、結局僕が先に嫌になって辞めちゃったんですよ。
正確にはクビなんですけどね(笑)。で一旦メッセンジャーは辞めました。

2ヶ月ぐらいは何にもしてなかったですね。完全に引き篭もりでした。何をしたいのか分からなくなっちゃって、気力ももう続かなくなってしまった。

そうこうしている間に当然生活費が限界に達して、食べるのもサイフの中に百何十円しか入ってなくて、本当に働かないとまずいなと。でやりたい仕事も無いから、嫌でもやるしかないかと思って前の会社にもう一度やらせてくれって頭下げに行ったんです。

そしたら木村さんが明日で最後ってみんなが騒いでて、「えっ!それは言ってた会社を立ち上げる事かな?」と思って木村さんに電話したら「今近くで飯喰ってるから来て」って言われて、そこでCyclexを立ち上げようとする話を聞いて。
もちろん前の会社に頭下げる事を止めて(笑)、今のCyclexでのスタートを切ったんですよ。

全てに対してやる気が無くなっちゃった部分があった中で、とにかく生活していく為にも、メッセンジャーっていう仕事は好きだから、どうせやるならメッセンジャーがいいなと。

いきなり前の会社みたいにバリバリ働けると思ってたんです。違う環境で、自由な環境で、そこで走れると思っていた。でもそんなことは全然無くて、立ち上げたばかりで当然お客さんもいないし、でも自分に取ってそこはそんなに問題ではなくて、一から何かやるって事が今後の自分の人生において、何らかしらプラスになるんじゃないかと思いましたし、もう後には引けなくなっていた。

自分のやりたい事と一致して、タイミング良く会社を立ち上げる最初のメンバーに入るなんて、なかなかやろうと思っても出来ないじゃないですか。後が無いっていう事もあったけど、絶対にやり通そうと思いました。だから今の自分があると思うし、それで強くなった部分もあると思います。

― メッセンジャーを続ける上で、特別なトレーニングや、モチベーションを高めたり、準備などはしているんですか?
特別これといってしていないですね。ただ僕もこの仕事が好きだし、走ってるメンバーに支えられてるって部分は大きい。無線越しに毎日メンバーの声聞いて、交信して、お客さんの顔を見て、それだけで凄く楽しい。走ることが好きだから、それだけで開放されてる。
― cyclexはメンバーがいいと?
そうですね。自分が最初からいたっていうのもあるけど。
いろんな人と出会って、もう100人近く出入りしているんですけどデカイ会社にいたら全員と顔を合わせることはまず無いですよね。
Cyclexのメッセンジャーは個々がしっかりと形成されているから、考え方とかいろんな面が知れてそれが凄くいい経験だった。「楽しむ場所は自分で作る」って言ってた仲間もいて、それも刺激になりましたね。

前の会社はもう組織として出来上がってたから、今さら一個人の俺が盾突いた所でどうにも出来ない所があって、売上げ1位になったのも社風を何とか変えたかった。色がどうだとかって(茶髪がだめだったりとか)俺は人種差別的に感じてしまうんです。外見の話なんてどうでもいいと思うんですよ。それを少し変えたかった。でも全く逆になっちゃって、もっと会社色に染まれみたいになっちゃって(笑)

Cyclexの場合は一から居て、自分が居たい環境を自分で作っていけるんじゃないかなって期待があったし、今もそう思ってるし、それが可能な会社だと思っている。だから7年もいるんだと思います。まぁ多少の良い悪いはありますけどね(笑)。

― 走っている時はどんなことを考えていますか?
その時々によって違います。何かを考えている時もあれば、時間に追われ無心になっている時もある。
トレーニングが若干入っていると言えば入っているかも。この仕事してると何回も同じコースを通るんですけど、そこが唯一自分の時間を計る材料になるから、それを結構考えていますね。感覚的なもので、ここまでが何分とか、7年もやっていると覚えてきちゃって。

それとサーキットに居るのと近いところはありますね。攻める所とか。まぁ攻めていない時もありますけど、ここをこうすると速くなるとか、ここの信号の繋がりがこうなってああなってとか考えている事は多いかもしれないですね。

― 待機中は何を考えているんですか?
寝てるか、自分の今後の事を考えていますね。
今だとそれがほとんどかな。皆といる時はたわいもない話してます。
― 待機は事務所なんですか?
いや、事務所はほとんどないですね。
ポイントがいくつかあって、そこで待機する。終ったらそこに戻って待機する。東京はカバーするエリアが広いので、海外とはまた違いますね。海外はダウンタウンが小さいので、違う会社でも待機ポイントが被ってるんです。違う会社同志のメッセンジャーが集まってきて、普通に仲良くなる感じ。東京はそういう所が無くて、微妙に近いんだけどみんなズラしていて、あまりそこを超えていかない感はありますね。自分もそこを超えていかないんだけど(笑)そういう場所が東京であったら面白いと思うんですけどね。
― 今までメッセンジャーをやってきて良かったことや感動したことはありますか?
やっぱり自分はレースに近い感覚をもっちゃうので、速く走って頑張ったことに対して、メッセンジャーで言えばお客さんが喜ぶ。レースで言えばチームクルー、仲間が喜ぶ。っていう環境がレースと近いのでそれは良かった。

Cyclexがスタートした頃の話なんだけど愛知県に送る書類を、佐川のターミナルまで何時までのトラックに積まないとならないっていうオーダーがあって、それが朝一の会議で使う書類だったらしくて。
虎ノ門から八潮まで8キロぐらいあって、とにかく何時までに載せないと間に合わないってことはさんざん言われていたんだけど、なかなか荷物ができなくて、結局30分ぐらい待たされて残り十何分しかなかったんだけど、何とかギリギリ間に合って向こうで佐川の人がこっちーみたいな感じで手を振って待っててくれて。
無事荷物を届けた後、終了報告を電話でお客さんにしたんですけど、「おお、良かったー」って電話越しに歓声が上がっているのが聞こえてその時は凄く嬉しかった。自分がレースで勝った時みたいに皆が喜んでくれて、あれは結構感動しました。

それと最初の仕事は嬉しかったですね。走れる喜びっていうか。
Cyclexに入る1ヶ月前に鎖骨を折る大怪我したんですけど、もう働くって決めてたんで、結局そのままCyclexが10月1日にスタートして、その前に三角巾を付けたまま営業してて、自分が営業した所からオーダーが入っちゃったんです。自分が頑張った事に対して、自分の何かが響いた事が嬉しかった。ある意味前の会社の厳しい部分を何となく理解するようになってきて、これだけ大変な思いをして取って来たお客さんを下らない事で無くしたくないっていう色々な思いがあって、厳しい事を言うんだなって。少し理解できるようになってきた部分があったりとか。

それも印象深いオーダーの1つでしたね。
三角巾を付けてデリバリーしてましたから。それで建物に着いたら三角巾を外してましたね(笑)。

― SINOさんにとってメッセンジャーの魅力って何ですか?
自分の力で頑張った事が、他人の喜びになって、それで飯も喰える。ただその単純な事が魅力なんです。
 

なかなかありそうでないじゃないですか。前に働いていた線路を直す仕事だって、線路を直したからって、乗ってるお客さんから「何かスムーズになった」なんて言われる事ってまずないですよね。
そうそう言われる事でもないんだけど、Cyclexにはわりとフレンドリーなお客さんが多いし、「すごい速いですね」とか言われたり、それも一つの魅力ですね。何か達成感と責任感がある仕事。

雨の日が続くと晴れの日が凄い幸せに思えたり、そういうのもメッセンジャーならではなのかな。自力ということでは台風の時でもそんな中走らなければならないし、梅雨時とか雨が何日も続いて、やっと晴れた時の気持ち良さはこの仕事ならではじゃないかと思います。普通の人でも梅雨は嫌だと思うんですけどメッセンジャー以上に体感は出来ないんじゃないかな。それも僕的には魅力です。ちっちゃな幸せなんだけどね。

後はチームで動いているので、金曜とかに忙しい中、みんなで気持ちよく仕事をやっつけられた時の達成感とか。走っているのは一人なんだけど、無線で繋がっているチームメイトがいて、分かり合える人がいる。それもこの仕事ならではの魅力なんじゃないかな。

オーダーも件数が違えば、入り方も違うし、来ているメンバーも違う。毎日条件が違くて、毎日違う達成感があるのも魅力の一つ。バイト生活の時には無かった充実感がある。そこまで思えるのが幸せだし、それがメッセンジャーだからなのか、自分でその環境を作ったのか、ちょっとわからないんですけど。

あとは、季節を感じられること。風が気持ちイイ、春の匂い、夏の匂い、秋の匂い、冬の匂いがあってそれをリアルに感じられたり、走っているだけで気持ちいい。

結局は個人の感じ方次第ですけどね。

― 今乗っている自転車は?
*4)Kalavinkaは運命的な出会いですね。僕がCyclexに入った当時一緒に働いていたメンバーの家に住んでたんですけど、そこがKalavinkaに近くて、たまたま行ったんです。そしたら、面白いオヤジがいて、カートやってた時の社長に雰囲気が似てたんですよね。

だから特別フレームがどうこうっていうよりも、対人の部分でKalavinkaを選んでいるっていうのがありますね。あとは単純にロゴがかっこいいとか、エンブレムがかっこいいとか入りはそんなものです(笑)

余り自転車の事詳しくないんですよね。
こうしたら速くなるだろうとかは勝手に追求しちゃうんですけど、中身までは行けず、ついつい見た目にいっちゃいます(笑)

*4)カラビンカ・・・目黒に工房を構える九十九サイクルスポーツのオリジナルブランド。その美しいフレームは多くのファンを魅了し続ける。

― メッセンジャーバッグは何を使っていますか?
RESISTANT。 一番身近な人(木村さん)が作っているし、使いやすいですね。自分のこうしてほしいって言うオーダーで作ってもらっているんで、今まで色んなバッグを背負ってきたけど、今のバッグが一番フィットしますね。
 

― ウェアとかの拘りは?

最近だと、だんだんスピードを追及するようになってきて、デカい服は着なくなりました。走りやすさを重要視するようになってきたので、Tシャツとかでも空気抵抗を感じるんですよ。
昔はそんな贅沢な事言えなかったですけどね、Tシャツ1枚買えなかったですから(笑)

― オフタイム(休日)は何してるんですか?

何らかしら自転車関連のイベントがあったり、その準備だったりとか、大体そんな感じで埋まってます。何も無いと寝てるか映画見まくったりとか。ドラマよりも映画がどうやら好きらしくて、そこで完結してくれる方がいいみたい。

― 何かはまっている事は?

土曜の朝はイレブン(ラーメン屋)に行く(笑)。何か不思議と体が欲しがるんですよね。美味しいから行くってよりも、洗脳されている感じで(笑)マイブームっていえばマイブームかな。それと映画鑑賞にはまっていますかね。ちょっと前だとプリズンブレイクとか..

― あれドラマじゃないですか?

あれはやられちゃいましたね(笑)。終わんねぇじゃんみたいな。でも最近嫌気が差してきてます。俺はあんまりドラマとか見なかったんだけど、確かにちょっとはまっちゃった(笑)でも基本的に短編物が好きですね。
― 世界戦等を通し、海外のメッセンジャーとの交流があると思いますが、海外のメッセンジャーの環境は日本と比べてどうですか?また海外のメッセンジャーについてお聞かせください。
英語がしゃべれないので深いコミュニケーションが取れてなく、分からないっていうのが正直な所です。

ただ、全ての都市がそうじゃないけど、メッセンジャーのアソシエイツ(組織)ってものが海外には当たり前のようにどの都市にでもあります。現状東京のメッセンジャーアソシエイツ(TKBMA)は世界戦をやるための運営スタッフみたいになっているんだけど、それを目指しているんじゃないんですよね。

海外のメッセンジャーは定期的なミーティングする時に、イベントの運営の事も当然議題にあるけれど、例えば「ここのビルの入館が面倒臭いからどうしよう」とか話し合いがあったりしているみたいで、そういうのが東京ではないですよね。会社ではなく、メッセンジャーという個の集まりの組織でそういう動きをしている事は素晴らしい事だと思う。

― 今の日本のメッセンジャーの環境はどうですか?
走りづらいですね。多分世界一走りづらい。世界全部回ったわけじゃないけど、走った中では一番走りづらいですね。

まず自転車が走る所が明確じゃないですよね。警官も言うことが違うし、歩道走れとか車道走れとかどこ走ればいいんだろうって。路駐が多いし、道幅が狭いですよね。

海外だとバイシクルレーンがちゃんとあって、ドライバーも自転車に対して優しい。日本では大半の車が自転車に優しくないですよね。邪魔者扱いされてるような…自転車ってモノの、認知のされ方が違うのかなぁて。これは僕が車乗って、自転車に乗るようになって、また車に乗るようになって、海外行って思ったんですけど。

海外で受けた印象は結構自転車を守ってくれるし、譲ってくれる。当然ふざけた事してれば怒られるけど。あおったりとか、幅寄せしたりとかは大人げない。当然俺らも正しい運転をしているかというと、そうとは言えない部分もあると思うけど。

だから今、自分が車に乗るとすごく自転車に優しくなれる。昔はやっぱり自分も同じで邪魔だなって思ってたけど、でもそれは車に乗っているドライバーが悪いんじゃなくて、日本の交通ルールが悪いと思う。苛立っちゃうような車幅だし、邪魔だなって思ってしまう。特に都心部だと渋滞して、イライラして、それは良くない。海外も渋滞するけど、もう少しストレスが無いよね。

急ぎの仕事をしているのは僕らだけじゃないけど、急ぎの仕事をしているからこそ思えるのはもう少しゆとりを持とうよと。僕らはその中でもゆとりを持ってやっているし、急ぐのは「僕らでいいんじゃない?」って思う。もう少しゆっくり歩きなよ、もっと休憩しようよって。

どうにか出来ないかなと時々思います。車も自転車ももうちょっとギスギスした感じが無くなって、お互いのことを考えるようになれば走りやすい環境になると思うんですけどね。

― トロントで優勝した時の涙が印象的でした、涙の訳とは?
はじめてレースで泣きましたね。今までのトラウマの所でもそうだし、4回目って言っても4年掛かってるし、どうしても東京に世界大会が来る前に勝ちたかった。その結果を出せたっていう気持ちが一番強かった。
 

今までの自分の人生の走馬灯じゃないけど、いろんな事を思い返した。
今回のレースの途中で外部の情報で自分がトップにいる事を知って、このまま行けば1位になれるかもしれないっていう、無駄な事を考える時間が最後の方はあったんですよ。 終盤になって、いろんな事が浮かんできて、またパンクするんじゃないかとか、サイクレックスを立ち上げた頃のことも思い返したりもした。
そして、臭い話になっちゃうんだけど自分の母親に証明したかった。カートを始めた時に、どうせ直ぐ辞めちゃうんだからって母親に思われてて、やり通したんだって事を見せたかった。

今までを振り返ると、自分でこうしたいってモノに対して、ちゃんとケジメをつけれた事が無かったんです。

ゴールした瞬間だけじゃなく、レースの途中から泣けてきちゃって。またシチュエーションが良くて、当日雨が降ったりやんだりが3回ぐらい続いて、でもちょうど最後の方に晴れて、ファーって夕日が差してきて、それも仕事と一緒でただ晴れたって事が感動に思えて…。

その光の温かさが人の温もりに感じたんですよ。
感動する気持ちがあふれ返ってきちゃって。思い出すと今でも熱くなっちゃうんだけど…辛かった事がそこで全てクリアになった。

メッセンジャーのSINOとしてだけじゃなく、CMWCで勝つことに対して、今まで28年間、自分がずっと生きてきた事すべてが入っているから涙が出たんだと思うんですよね。

丁度サイクレックスがスタートした2ヶ月後に母親を亡くしたんですよ。でもその時は喪にふくしてる場合じゃなかった、暇がなかった。
これは感動の涙でもあったんだけど、ちょっと悲しい涙でもあった。この姿を母親に見せたかった。すごく見せたかった。成しえたんだけど、見せられなかったっていう後悔的なものでもあるんだ。

ただ、優勝した事だけに泣いていたんじゃなくて、まさか泣くとは思ってなかったし。そんな不思議な感じでしたね。

― SINOさんの目標と最終的なゴールは?
最終的なゴールは今の所ないですね。考えた事もないなぁ。ゴールしちゃうと生きてる以上、またスタートになるし。競技者じゃなくても人生の再スタートはあるし。

ちっちゃい夢で言うと世界旅行をしたい。モアイ像見たり、ピラミットや、ナスカの地上絵見たり。まぁやりつくして、死ねればいいんじゃないかな。

― 来年の東京世界大会に向けての意気込みはありますか?
今はまだ1年前だから、はっきり言って意気込んではないですね(笑)。車だったらハンドル握った時、自転車ならペダルに足が入った時、始めてスイッチが入るんで、それまでは結構曖昧な事ばっかり言ってますから。

CMWCに関していうと勝っても、負けても笑えるレースでありイベントだから、そんなに執着してないですね。でも出るんなら当然勝ちたいし、勝ちに行く。
ある意味トロントの時もそうで、絶対勝ちたかったんだけど、でも心のどこかでは負けても許せる所があるっていうか。でも今回思ったのが、もしかして逆にそれがレースで勝つ上で必要なことなのかなって。

カートやってた時は100%勝たなきゃだめって思ってたんだけど、それが逆に自分にプレッシャーを与えてた。 人それぞれプレッシャーに強い、弱いってあると思うんですけど、勝つ上でそのバランスを取る事が大事だと思うんですよね。

メンタルに弱い人は本当に弱いだろうし、自分も強くないと思ってるから、どう自分の能力を100%に近い状態で発揮できるかは、何かそういう所にあるのかなって、自分の心の逃げ場を作っておけばいいのかなって、それは今回勝った事で学んだかな。

特に今は意気込みってほどの鼻息荒くする時期でもないし、今から鼻息荒くしてももたないし。
やっぱりCMWCはそうゆうイベントじゃないし、ペダルはまってから「よっしゃー」ってなればいいんじゃないかな。それまではゆるくマイペースで自分のやりたいように。そこがいい所なんじゃないかなって思うんですけどね。

― ありがとうございました!!
本名:篠塚寛幸
生年月日:S54.12.10
身長:177cm
体重:71kg
歴代メッセンジャーバッグ:
オルトリーブ、TIMBUK2、リロード、RESISTANT(現在)
必ず携帯しているアイテム:カナダのピンバッチ

CMWC戦績
2005年 第13回アメリカ・ニューヨーク大会 予選敗退
2006年 第14回オーストラリア・シドニー大会 4位
2007年 第15回アイルランド・ダブリン大会 4位
2008年 第16回カナダ・トロント大会 優勝

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― まずは*1)CMWCトロント大会での優勝おめでとうございます。優勝していかがでしたか?
ありがとうございます。一番最初に感じたのは「気持ちいいー!!」ですね。
まさにマスターベーションだな。自分に掛けていた全ての重圧からいっきに開放されて、終わったっていうのは変だけど肩の荷が下りたのかな。

*1)Cycle Messenger World Championshipsの略。年に一度世界の都市で行われるメッセンジャーの世界大会。今年は6月にカナダのトロントで行われた。

― CMWCに初めて参戦されたのは2005年のニューヨーク。その時はいかがでしたか?
レース的な面で言うと「意外といけるんじゃない?」みたいな。
実は予選落ちだけど(笑)。それはちょっとコースを間違えただけで、もしかしてスピード的には戦えるレベルにいるんじゃないのかなって思いました。と同時にもっと経験しないど全然ダメだなと。英語も必要だなと。でもロクに勉強してないんですけど(笑)。

イベントトータルで見るとレースレースしてるわけではなくて、大会を楽しむというか、みんなが集まる事にまず意義がある、というのを感じました。

昔自分がカートレースに出てた時はそういう感覚がなかった。
勝負だけの為に来ているから、もっとギスギスしているし、みんな緊張してるんだけど、CMWCはすごくリラックスしてますね。僕は初めてだったから、*2)KYOTO LOCOで会った海外の連中しか知らなかったんだけど。周りを見ると1年ぶりの再会をしている人が何人もいて、すごく温かいイベントでした。

*2)2002年から京都で開催された伝説的なメッセンジャーイベント。今年11月に3年の時を経て復活する。

― 今回で4回目の参戦だと思いますが、どうですか?変化とか?
やっぱりレースを勝ちに行く事をメインに考えていたので、その辺は変わりないですが、運営面だと年々イベントがルーズになって行きますね。時間やスケジュールとかNYの時もそうだったんだけど、常に2時間おすんですよ。次いつ何をやるのかさっぱりわからない状態。それが当たり前みたいに思っていないと、日本人的感覚かもしれませんがイラッとしてしまう。

翌年のシドニーも時間がおしましたね。ダブリンの時はもっとひどくて、エントリーすると必ずもらえるスケジュールや、ガイドブックが無く、何をいつやるのか全くわからない状態でした。なかなか世界戦のリズムに乗りにくいですね。毎年、違う国で違う人たちが運営をしているから、時間軸がいつもめちゃくちゃです。

― 精神面でもだいぶこの4年間で経験値を積み強くなったと?
そうですね。
とにかく予想以上に疲れて、英語も分からなければ知識もなくて、何も出来ない感じ。色んな面で日本と違うじゃないですか。例えば自販機が無いし、トイレはまず無いし。そういった部分でも微妙に精神的に疲れて負担になってしまう。
NYの時はお酒もタバコも止めていて、それが今思うと馬鹿らしかった。CMWCはもっと和やかな雰囲気なんで、毎晩パーティーがあるし、メインレースが終わるまでお酒を飲まないっていうのも、何しに来たか分からないみたいな部分がありました。

僕が行った今までのCMWCはみんなルーズ。NY、シドニー、ダブリン、トロントときて、ずっとルーズで、もうそういうものだと分かっているからストレスにならないし、向こうに行ったらスイッチが切り替わりますね。

トロントも結局、予選は4、5時間おしましたし、普通はエントリーの時に付いてくるはずのコースマップがスタートの1時間前まで配布されないし。 適当に自分の感覚で、「そろそろ配ってんじゃない?」と思ってスタートポイントに行ったら、実際に配ってた。自分に何か世界戦の時間軸みたいなものが感覚としてちゃんと備わってきているんですよね。

― 元々レースに興味があったのですか?
元々モータースポーツに興味がありました。今思えば、レースなら何でも燃えます。
 

― カートレースをされていたのはいつ頃ですか?

始めたのは中学卒業してからだけど、簡単に始められた訳ではなかった。そんなに裕福ではなかったのが一番の原因でしょう。小6の時に始めてF‐1をTVで観てからずっと親を説得し続け気がつけば中学を卒業、始めるまでに4年もの時間を費やしてしまった。今思えばこの時から4という数字に縁があったのかなぁ???

レースを始めてからもとにかく資金不足との戦いだった。夜間高校に行くも半年もしない間にやめて、気がつけば睡眠時間なんてないに等しいほど働いてましたね。速くなることよりも走る環境を作ることが凄く大変でした。

― その"4"という数字について詳しく聞かせて下さい

カート時代にしこりの残った数字ですね。
まずカートレースの地方選手権でシリーズ4位だった。予選前のタイムアタックで雨で出遅れて、ペナルティで決勝6番手ぐらいからスタートになったんですけど、前に佐藤琢磨がいたりして、3周ぐらいですべて抜いたんですよ。抜いて次のコーナーでぶつけられて、結局再スタート出来たんだけどみたいな感じで、何回もトップ争いをしていたんだけど、そのシリーズが4位だった。

自分の中ではトラウマがあって、スピードがあるけど勝てない。

翌年も全日本選手権に出たんですけど、全く資金がなかったので、一年目はズタズタ。予選落ちも何回もしたし、その時に辞めようかな思ったんだけど。当時同じチームの人が「夢を諦めない方がいい」と言ってくれて、それで立ち直って。朝から24時間働いて何とかして資金作って、練習して、次の年また全日本選手権に出るんですけど。そこで第一戦、予選一位でポールポジションとったんだけどまた決勝は4位だった。

4位は何かしこりが残るんですよね。表彰台にも立てないし、雑誌も取り上げないし、苦い思い出が凄くありました。

で、忘れた頃に06年のシドニーのCMWCに出て終わった時にも思ったんです。あの地方選手権の時も、全日本選手権も4が邪魔をして、でまた今回も4位で俺は何なんだって。でもその時は偶然だと思っていたんだけど07年のダブリンでまた4位。これは超えなきゃいけないなって強く思いましたね。みんな知らないけど、それが凄くデカイ重圧でした。速いんだけど結果が出せない。世界戦も今回4回目なんで、自分が速いのは当然海外のメッセンジャーは知ってるし、また速いけど勝てない男になっちゃうのかなって。それが自分に掛かった重いプレッシャーでした。

― メッセンジャーを始めたキッカケは?
レースをやっていたので土日休みで、体を動かす健全な仕事をしたかった。前職で(カートレースの資金を稼ぐのに)無理してたんで、体を動かしながら鍛えられる仕事で、当然稼がなくてはならない、そういう部分でたまたま希望に合ったので。

正直メッセンジャーってどんな仕事か分からなかったんです。横文字すぎちゃって(笑)仕事の内容よりも稼ぎと土日休みが重要でした。完全週休2日で歩合制だったんですよ。で募集していた会社に電話して「いくら稼げるんですか?」って聞いたら稼げる人は○万ぐらいって言われて、じゃあ稼げる人になってやろうってことで。面接行って初めてメッセンジャーが配送業務って事をしりましたね。(笑)

そこで*3)木村さん(Cyclex代表)と出会うんですけど、新人研修があって、最初木村さんに「使えねー」って言われました。(笑)

その時、木村さんが背負ってたオルトリーブにF1とかのシートベルトで使うパッドを付けてたんです。僕もF1目指してたのでそのメーカーを知ってるし、何かかっこいいなってそれだけで思っちゃったんです。何だか分からないけどこの仕事は面白そうだなって思いましたね。

面接があって、その後走行研修があるんですけど、それに受からないと配属されないんです。最初木村さんについて行って、その後一人で走ってという流れなんですけど。木村さんについて行った時はペースが結構ゆっくりだったんですよ。で何だ楽勝じゃんて思って、そのペースで走ってたら「そんなんじゃ全然ダメ」って怒られて、「えっ!さっきこのぐらいのペースじゃなかった?」みたいな(笑)
で木村さんが「俺がもう一回前にでるからついてきて」って言って、メチャクチャ飛ばされたんです。また前に出て走って、その時出せる力を頑張って出したんですけど、その後に「お前使えねー」って言われてガーンでしたよ(笑)

けど「お前はスピードはあるが粗削り過ぎる。しかし、本当にやりたいという気持ちがあるならOKにする」って言われて「やります」って即答でした。まぁ使えねーって言われて引き下がれるタイプでもないんですけどね。

*3)木村信一・・・SINOが所属するメッセンジャー会社サイクレックス代表。自身が手がけるメッセンジャーバッグブランドRESISTANTの代表でもある。

― メッセンジャーをはじめた時の苦労話しなどはありますか?
パンク修理が出来なかった。その時はいえなかったけど、何とかやろうとするんだけど、パッチが貼れなくて。最初の2、3ヶ月はパンク修理が嫌で、パンクしたら1日何とかそれで走って、仕事終わったら自転車屋に持って行って。結構ひどいメッセンジャーでしたね(笑)
― 当時所属してた会社でバイク便を抜いて月間売上No1を取った時の原動力は?
やっぱりカートレースに直ぐ戻りたかったから、それが原動力として一番強かったですね。24時間働こうが苦にならなかったんで、多分思考回路がイカレてましたね。休もうという考えが無かった。休む時間があったら、働く。少しでも稼ぐことしか考えてませんでしたね。
 

でもいつしかメッセンジャーって仕事に対して何か考えるようになってきて長く続けようと思った。少し社会人的な事を考えるようになったのがメッセンジャーからなんですけどね。

月間1位になっても、それを1年ぐらい続けないと借金が返せなかった。
1位になった時は結構稼いだんですけど。当然毎月そんな額を作れたわけじゃないし、まだメッセンジャーやりたてで3ヶ月か4ヶ月目ぐらいで売上1位になったんだけど。すごく過酷だった。全くプライベートの時間がないし。
昔レースやってた時は何時間働いても、土日にはレースをやれるっていう自分の発散できる場所があって、働いた分返ってくるものがあったんだけど。でもその時は働いても返ってくるものが無くて、借金を返す喜びぐらいしか無かった。

それに段々息詰まってきて、その会社の社風に合わなくて、ノースリーブがダメだとか、茶髪がダメだとか、ヒゲがダメだとか。自分自身大ざっぱなので、性格が合わないというか。走っている同じ無線のチームメイトとも正直合わなくて。

この仕事はお客さんの急いでほしいという要望に応えて、はじめて達成感があると思うんですけど。ガッツキ過ぎって言われた事があって、それが凄くしゃくにさわって。俺は自分の稼ぎだけの為にハングリーにやっている訳ではなく、メッセンジャーという仕事の意味を大事に考えてやっていたつもりなのに同じチームメイトからそれじゃ俺らが稼げないみたいな事を言われて、そんな理不尽なことを言うやつらがいる会社にいたく無くなっちゃって、それで辞めちゃったんですよね。

― Cyclexに入った経緯は?
辞める1ヶ月ぐらい前に悩んでいて、結構木村さんに相談してたんです。木村さんが自分の中で魅力のある人で何か面白い人だなと思ってて、自分がレースやってた話や、「独立しないんですか?」みたいな話をよくしてたんですよ。

そしたら「実はそんな野望もある」みたいな。じゃあ辞めましょうよみたいに言ってたんですけど、もちろんその時は木村さんの立場上直ぐにそんな行動は起こせる訳もなく、結局僕が先に嫌になって辞めちゃったんですよ。
正確にはクビなんですけどね(笑)。で一旦メッセンジャーは辞めました。

2ヶ月ぐらいは何にもしてなかったですね。完全に引き篭もりでした。何をしたいのか分からなくなっちゃって、気力ももう続かなくなってしまった。

そうこうしている間に当然生活費が限界に達して、食べるのもサイフの中に百何十円しか入ってなくて、本当に働かないとまずいなと。でやりたい仕事も無いから、嫌でもやるしかないかと思って前の会社にもう一度やらせてくれって頭下げに行ったんです。

そしたら木村さんが明日で最後ってみんなが騒いでて、「えっ!それは言ってた会社を立ち上げる事かな?」と思って木村さんに電話したら「今近くで飯喰ってるから来て」って言われて、そこでCyclexを立ち上げようとする話を聞いて。
もちろん前の会社に頭下げる事を止めて(笑)、今のCyclexでのスタートを切ったんですよ。

全てに対してやる気が無くなっちゃった部分があった中で、とにかく生活していく為にも、メッセンジャーっていう仕事は好きだから、どうせやるならメッセンジャーがいいなと。

いきなり前の会社みたいにバリバリ働けると思ってたんです。違う環境で、自由な環境で、そこで走れると思っていた。でもそんなことは全然無くて、立ち上げたばかりで当然お客さんもいないし、でも自分に取ってそこはそんなに問題ではなくて、一から何かやるって事が今後の自分の人生において、何らかしらプラスになるんじゃないかと思いましたし、もう後には引けなくなっていた。

自分のやりたい事と一致して、タイミング良く会社を立ち上げる最初のメンバーに入るなんて、なかなかやろうと思っても出来ないじゃないですか。後が無いっていう事もあったけど、絶対にやり通そうと思いました。だから今の自分があると思うし、それで強くなった部分もあると思います。

― メッセンジャーを続ける上で、特別なトレーニングや、モチベーションを高めたり、準備などはしているんですか?
特別これといってしていないですね。ただ僕もこの仕事が好きだし、走ってるメンバーに支えられてるって部分は大きい。無線越しに毎日メンバーの声聞いて、交信して、お客さんの顔を見て、それだけで凄く楽しい。走ることが好きだから、それだけで開放されてる。
― cyclexはメンバーがいいと?
そうですね。自分が最初からいたっていうのもあるけど。
いろんな人と出会って、もう100人近く出入りしているんですけどデカイ会社にいたら全員と顔を合わせることはまず無いですよね。
Cyclexのメッセンジャーは個々がしっかりと形成されているから、考え方とかいろんな面が知れてそれが凄くいい経験だった。「楽しむ場所は自分で作る」って言ってた仲間もいて、それも刺激になりましたね。

前の会社はもう組織として出来上がってたから、今さら一個人の俺が盾突いた所でどうにも出来ない所があって、売上げ1位になったのも社風を何とか変えたかった。色がどうだとかって(茶髪がだめだったりとか)俺は人種差別的に感じてしまうんです。外見の話なんてどうでもいいと思うんですよ。それを少し変えたかった。でも全く逆になっちゃって、もっと会社色に染まれみたいになっちゃって(笑)

Cyclexの場合は一から居て、自分が居たい環境を自分で作っていけるんじゃないかなって期待があったし、今もそう思ってるし、それが可能な会社だと思っている。だから7年もいるんだと思います。まぁ多少の良い悪いはありますけどね(笑)。

― 走っている時はどんなことを考えていますか?
その時々によって違います。何かを考えている時もあれば、時間に追われ無心になっている時もある。
トレーニングが若干入っていると言えば入っているかも。この仕事してると何回も同じコースを通るんですけど、そこが唯一自分の時間を計る材料になるから、それを結構考えていますね。感覚的なもので、ここまでが何分とか、7年もやっていると覚えてきちゃって。

それとサーキットに居るのと近いところはありますね。攻める所とか。まぁ攻めていない時もありますけど、ここをこうすると速くなるとか、ここの信号の繋がりがこうなってああなってとか考えている事は多いかもしれないですね。

― 待機中は何を考えているんですか?
寝てるか、自分の今後の事を考えていますね。
今だとそれがほとんどかな。皆といる時はたわいもない話してます。
― 待機は事務所なんですか?
いや、事務所はほとんどないですね。
ポイントがいくつかあって、そこで待機する。終ったらそこに戻って待機する。東京はカバーするエリアが広いので、海外とはまた違いますね。海外はダウンタウンが小さいので、違う会社でも待機ポイントが被ってるんです。違う会社同志のメッセンジャーが集まってきて、普通に仲良くなる感じ。東京はそういう所が無くて、微妙に近いんだけどみんなズラしていて、あまりそこを超えていかない感はありますね。自分もそこを超えていかないんだけど(笑)そういう場所が東京であったら面白いと思うんですけどね。
― 今までメッセンジャーをやってきて良かったことや感動したことはありますか?
やっぱり自分はレースに近い感覚をもっちゃうので、速く走って頑張ったことに対して、メッセンジャーで言えばお客さんが喜ぶ。レースで言えばチームクルー、仲間が喜ぶ。っていう環境がレースと近いのでそれは良かった。

Cyclexがスタートした頃の話なんだけど愛知県に送る書類を、佐川のターミナルまで何時までのトラックに積まないとならないっていうオーダーがあって、それが朝一の会議で使う書類だったらしくて。
虎ノ門から八潮まで8キロぐらいあって、とにかく何時までに載せないと間に合わないってことはさんざん言われていたんだけど、なかなか荷物ができなくて、結局30分ぐらい待たされて残り十何分しかなかったんだけど、何とかギリギリ間に合って向こうで佐川の人がこっちーみたいな感じで手を振って待っててくれて。
無事荷物を届けた後、終了報告を電話でお客さんにしたんですけど、「おお、良かったー」って電話越しに歓声が上がっているのが聞こえてその時は凄く嬉しかった。自分がレースで勝った時みたいに皆が喜んでくれて、あれは結構感動しました。

それと最初の仕事は嬉しかったですね。走れる喜びっていうか。
Cyclexに入る1ヶ月前に鎖骨を折る大怪我したんですけど、もう働くって決めてたんで、結局そのままCyclexが10月1日にスタートして、その前に三角巾を付けたまま営業してて、自分が営業した所からオーダーが入っちゃったんです。自分が頑張った事に対して、自分の何かが響いた事が嬉しかった。ある意味前の会社の厳しい部分を何となく理解するようになってきて、これだけ大変な思いをして取って来たお客さんを下らない事で無くしたくないっていう色々な思いがあって、厳しい事を言うんだなって。少し理解できるようになってきた部分があったりとか。

それも印象深いオーダーの1つでしたね。
三角巾を付けてデリバリーしてましたから。それで建物に着いたら三角巾を外してましたね(笑)。

― SINOさんにとってメッセンジャーの魅力って何ですか?
自分の力で頑張った事が、他人の喜びになって、それで飯も喰える。ただその単純な事が魅力なんです。
 

なかなかありそうでないじゃないですか。前に働いていた線路を直す仕事だって、線路を直したからって、乗ってるお客さんから「何かスムーズになった」なんて言われる事ってまずないですよね。
そうそう言われる事でもないんだけど、Cyclexにはわりとフレンドリーなお客さんが多いし、「すごい速いですね」とか言われたり、それも一つの魅力ですね。何か達成感と責任感がある仕事。

雨の日が続くと晴れの日が凄い幸せに思えたり、そういうのもメッセンジャーならではなのかな。自力ということでは台風の時でもそんな中走らなければならないし、梅雨時とか雨が何日も続いて、やっと晴れた時の気持ち良さはこの仕事ならではじゃないかと思います。普通の人でも梅雨は嫌だと思うんですけどメッセンジャー以上に体感は出来ないんじゃないかな。それも僕的には魅力です。ちっちゃな幸せなんだけどね。

後はチームで動いているので、金曜とかに忙しい中、みんなで気持ちよく仕事をやっつけられた時の達成感とか。走っているのは一人なんだけど、無線で繋がっているチームメイトがいて、分かり合える人がいる。それもこの仕事ならではの魅力なんじゃないかな。

オーダーも件数が違えば、入り方も違うし、来ているメンバーも違う。毎日条件が違くて、毎日違う達成感があるのも魅力の一つ。バイト生活の時には無かった充実感がある。そこまで思えるのが幸せだし、それがメッセンジャーだからなのか、自分でその環境を作ったのか、ちょっとわからないんですけど。

あとは、季節を感じられること。風が気持ちイイ、春の匂い、夏の匂い、秋の匂い、冬の匂いがあってそれをリアルに感じられたり、走っているだけで気持ちいい。

結局は個人の感じ方次第ですけどね。

― 今乗っている自転車は?
*4)Kalavinkaは運命的な出会いですね。僕がCyclexに入った当時一緒に働いていたメンバーの家に住んでたんですけど、そこがKalavinkaに近くて、たまたま行ったんです。そしたら、面白いオヤジがいて、カートやってた時の社長に雰囲気が似てたんですよね。

だから特別フレームがどうこうっていうよりも、対人の部分でKalavinkaを選んでいるっていうのがありますね。あとは単純にロゴがかっこいいとか、エンブレムがかっこいいとか入りはそんなものです(笑)

余り自転車の事詳しくないんですよね。
こうしたら速くなるだろうとかは勝手に追求しちゃうんですけど、中身までは行けず、ついつい見た目にいっちゃいます(笑)

*4)カラビンカ・・・目黒に工房を構える九十九サイクルスポーツのオリジナルブランド。その美しいフレームは多くのファンを魅了し続ける。

― メッセンジャーバッグは何を使っていますか?
RESISTANT。 一番身近な人(木村さん)が作っているし、使いやすいですね。自分のこうしてほしいって言うオーダーで作ってもらっているんで、今まで色んなバッグを背負ってきたけど、今のバッグが一番フィットしますね。
 

― ウェアとかの拘りは?

最近だと、だんだんスピードを追及するようになってきて、デカい服は着なくなりました。走りやすさを重要視するようになってきたので、Tシャツとかでも空気抵抗を感じるんですよ。
昔はそんな贅沢な事言えなかったですけどね、Tシャツ1枚買えなかったですから(笑)

― オフタイム(休日)は何してるんですか?

何らかしら自転車関連のイベントがあったり、その準備だったりとか、大体そんな感じで埋まってます。何も無いと寝てるか映画見まくったりとか。ドラマよりも映画がどうやら好きらしくて、そこで完結してくれる方がいいみたい。

― 何かはまっている事は?

土曜の朝はイレブン(ラーメン屋)に行く(笑)。何か不思議と体が欲しがるんですよね。美味しいから行くってよりも、洗脳されている感じで(笑)マイブームっていえばマイブームかな。それと映画鑑賞にはまっていますかね。ちょっと前だとプリズンブレイクとか..

― あれドラマじゃないですか?

あれはやられちゃいましたね(笑)。終わんねぇじゃんみたいな。でも最近嫌気が差してきてます。俺はあんまりドラマとか見なかったんだけど、確かにちょっとはまっちゃった(笑)でも基本的に短編物が好きですね。
― 世界戦等を通し、海外のメッセンジャーとの交流があると思いますが、海外のメッセンジャーの環境は日本と比べてどうですか?また海外のメッセンジャーについてお聞かせください。
英語がしゃべれないので深いコミュニケーションが取れてなく、分からないっていうのが正直な所です。

ただ、全ての都市がそうじゃないけど、メッセンジャーのアソシエイツ(組織)ってものが海外には当たり前のようにどの都市にでもあります。現状東京のメッセンジャーアソシエイツ(TKBMA)は世界戦をやるための運営スタッフみたいになっているんだけど、それを目指しているんじゃないんですよね。

海外のメッセンジャーは定期的なミーティングする時に、イベントの運営の事も当然議題にあるけれど、例えば「ここのビルの入館が面倒臭いからどうしよう」とか話し合いがあったりしているみたいで、そういうのが東京ではないですよね。会社ではなく、メッセンジャーという個の集まりの組織でそういう動きをしている事は素晴らしい事だと思う。

― 今の日本のメッセンジャーの環境はどうですか?
走りづらいですね。多分世界一走りづらい。世界全部回ったわけじゃないけど、走った中では一番走りづらいですね。

まず自転車が走る所が明確じゃないですよね。警官も言うことが違うし、歩道走れとか車道走れとかどこ走ればいいんだろうって。路駐が多いし、道幅が狭いですよね。

海外だとバイシクルレーンがちゃんとあって、ドライバーも自転車に対して優しい。日本では大半の車が自転車に優しくないですよね。邪魔者扱いされてるような…自転車ってモノの、認知のされ方が違うのかなぁて。これは僕が車乗って、自転車に乗るようになって、また車に乗るようになって、海外行って思ったんですけど。

海外で受けた印象は結構自転車を守ってくれるし、譲ってくれる。当然ふざけた事してれば怒られるけど。あおったりとか、幅寄せしたりとかは大人げない。当然俺らも正しい運転をしているかというと、そうとは言えない部分もあると思うけど。

だから今、自分が車に乗るとすごく自転車に優しくなれる。昔はやっぱり自分も同じで邪魔だなって思ってたけど、でもそれは車に乗っているドライバーが悪いんじゃなくて、日本の交通ルールが悪いと思う。苛立っちゃうような車幅だし、邪魔だなって思ってしまう。特に都心部だと渋滞して、イライラして、それは良くない。海外も渋滞するけど、もう少しストレスが無いよね。

急ぎの仕事をしているのは僕らだけじゃないけど、急ぎの仕事をしているからこそ思えるのはもう少しゆとりを持とうよと。僕らはその中でもゆとりを持ってやっているし、急ぐのは「僕らでいいんじゃない?」って思う。もう少しゆっくり歩きなよ、もっと休憩しようよって。

どうにか出来ないかなと時々思います。車も自転車ももうちょっとギスギスした感じが無くなって、お互いのことを考えるようになれば走りやすい環境になると思うんですけどね。

― トロントで優勝した時の涙が印象的でした、涙の訳とは?
はじめてレースで泣きましたね。今までのトラウマの所でもそうだし、4回目って言っても4年掛かってるし、どうしても東京に世界大会が来る前に勝ちたかった。その結果を出せたっていう気持ちが一番強かった。
 

今までの自分の人生の走馬灯じゃないけど、いろんな事を思い返した。
今回のレースの途中で外部の情報で自分がトップにいる事を知って、このまま行けば1位になれるかもしれないっていう、無駄な事を考える時間が最後の方はあったんですよ。 終盤になって、いろんな事が浮かんできて、またパンクするんじゃないかとか、サイクレックスを立ち上げた頃のことも思い返したりもした。
そして、臭い話になっちゃうんだけど自分の母親に証明したかった。カートを始めた時に、どうせ直ぐ辞めちゃうんだからって母親に思われてて、やり通したんだって事を見せたかった。

今までを振り返ると、自分でこうしたいってモノに対して、ちゃんとケジメをつけれた事が無かったんです。

ゴールした瞬間だけじゃなく、レースの途中から泣けてきちゃって。またシチュエーションが良くて、当日雨が降ったりやんだりが3回ぐらい続いて、でもちょうど最後の方に晴れて、ファーって夕日が差してきて、それも仕事と一緒でただ晴れたって事が感動に思えて…。

その光の温かさが人の温もりに感じたんですよ。
感動する気持ちがあふれ返ってきちゃって。思い出すと今でも熱くなっちゃうんだけど…辛かった事がそこで全てクリアになった。

メッセンジャーのSINOとしてだけじゃなく、CMWCで勝つことに対して、今まで28年間、自分がずっと生きてきた事すべてが入っているから涙が出たんだと思うんですよね。

丁度サイクレックスがスタートした2ヶ月後に母親を亡くしたんですよ。でもその時は喪にふくしてる場合じゃなかった、暇がなかった。
これは感動の涙でもあったんだけど、ちょっと悲しい涙でもあった。この姿を母親に見せたかった。すごく見せたかった。成しえたんだけど、見せられなかったっていう後悔的なものでもあるんだ。

ただ、優勝した事だけに泣いていたんじゃなくて、まさか泣くとは思ってなかったし。そんな不思議な感じでしたね。

― SINOさんの目標と最終的なゴールは?
最終的なゴールは今の所ないですね。考えた事もないなぁ。ゴールしちゃうと生きてる以上、またスタートになるし。競技者じゃなくても人生の再スタートはあるし。

ちっちゃい夢で言うと世界旅行をしたい。モアイ像見たり、ピラミットや、ナスカの地上絵見たり。まぁやりつくして、死ねればいいんじゃないかな。

― 来年の東京世界大会に向けての意気込みはありますか?
今はまだ1年前だから、はっきり言って意気込んではないですね(笑)。車だったらハンドル握った時、自転車ならペダルに足が入った時、始めてスイッチが入るんで、それまでは結構曖昧な事ばっかり言ってますから。

CMWCに関していうと勝っても、負けても笑えるレースでありイベントだから、そんなに執着してないですね。でも出るんなら当然勝ちたいし、勝ちに行く。
ある意味トロントの時もそうで、絶対勝ちたかったんだけど、でも心のどこかでは負けても許せる所があるっていうか。でも今回思ったのが、もしかして逆にそれがレースで勝つ上で必要なことなのかなって。

カートやってた時は100%勝たなきゃだめって思ってたんだけど、それが逆に自分にプレッシャーを与えてた。 人それぞれプレッシャーに強い、弱いってあると思うんですけど、勝つ上でそのバランスを取る事が大事だと思うんですよね。

メンタルに弱い人は本当に弱いだろうし、自分も強くないと思ってるから、どう自分の能力を100%に近い状態で発揮できるかは、何かそういう所にあるのかなって、自分の心の逃げ場を作っておけばいいのかなって、それは今回勝った事で学んだかな。

特に今は意気込みってほどの鼻息荒くする時期でもないし、今から鼻息荒くしてももたないし。
やっぱりCMWCはそうゆうイベントじゃないし、ペダルはまってから「よっしゃー」ってなればいいんじゃないかな。それまではゆるくマイペースで自分のやりたいように。そこがいい所なんじゃないかなって思うんですけどね。

― ありがとうございました!!
本名:篠塚寛幸
生年月日:S54.12.10
身長:177cm
体重:71kg
歴代メッセンジャーバッグ:
オルトリーブ、TIMBUK2、リロード、RESISTANT(現在)
必ず携帯しているアイテム:カナダのピンバッチ

CMWC戦績
2005年 第13回アメリカ・ニューヨーク大会 予選敗退
2006年 第14回オーストラリア・シドニー大会 4位
2007年 第15回アイルランド・ダブリン大会 4位
2008年 第16回カナダ・トロント大会 優勝

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