Courier代表 石出"Katz"氏
08.Courier
有限会社クーリエ
http://www.courier-tokyo.com/

Interview by messengerbag.jp
Photo by Jun from messengerbag.jp
取材日:2008年10月31日
日本のメッセンジャー史において欠かす事のできない人物、現クーリエ代表・石出"Katz"氏。90年代初頭からメッセンジャーを生業とし続ける貴重な存在である。アジア圏から初めてCMWCに参戦し、その時受けた衝撃を胸に今も”ブレない心”を持ち続ける。
時代に順応させた様々なメッセンジャーの業務形態が誕生する中、"Katz"氏がこだわり続ける本来あるべきメッセンジャーの姿とは、、。"Katz"氏に話しを伺った。
― まずは、メッセンジャーという職業を始められたのはいつからですか?また、その動機も聞かせてください
1992年4月からです。
動機はいたってシンプルで、夜間の学校に通う事になり、昼間は思いっきり東京のど真ん中で働ける仕事をしたいと思っていました。 当時、火曜と金曜に発売されていた求人誌を毎回購入していて、毎回同じような情報ばかりだったので、半ばあきらめモードだったのですが、ある時の情報誌を見ていたら居眠りをしてしまい、目を覚ました時に指が挟まっていたページがあったんです。開いてみると『自転車に跨る一匹狼』ってキャッチが目に飛び込んできて、、。

確か一番小さい広告だったんですが、メッセンジャーバック、JIROのヘルメット、マウンテンバイク(ロードレーサーだったかな?)これがニューヨークのメッセンジャースタイル!小さなスペースにみっちり詰め込んで書かれていたのを覚えています。
『メッセンジャー』って言葉も、ましてや職業だなんて、全く知りませんでした。 ホント、この小さなスペースにこの詰め込まれた言葉一つひとつがカッコよく感じ、直ぐに連絡しました。 面接までたどり着くには少々困難がありましたが、半ば強引な展開で面接にたどりつく事ができ、採用して頂きました。
ティーサーブ社における、アルバイト一期生とされています。メッセンジャーNo,005。

― 当時はメッセンジャーという職業そのものが一般的に認知されていなかった時代でしたよね?
そう、一般的に認知はされていなかったと思いますが、当時、所属したティーサーブ社の他に、野坂セブンという運送会社の自転車部門の輪急便。丸の内の国際ビルに潜めていた、痩せたスーパーマリオの様な容姿で、メッセンジャーバックを背負い、マウンテンバイクに乗ったどこかの企業と契約していたと思われる個人のメッセンジャーの方。そして、ママチャリで有価証券を専門で運んでいた、証券会社をリタイヤ(?)された高齢の方々が属していたシティサービスという会社など、私の知っている限りでもこれらの存在がありました。
メッセンジャーという職業も、存在もイマイチ知らなかった自分が、求人広告の『ニューヨークのメッセンジャースタイル!』という言葉だけでメッセンジャーを想像し、彼らを横目で見つつ『あいつらよりもカッコ良く、速くデリバリーしてやる!』って、その意識だけは過剰にありましたね。
 

また、当時、西新橋と赤坂にあった二つの事務所の他に、移動荷物置き場的存在でマークIIのライトバン(懐かしい響き)がありました。マークIIは、月曜日の定期便の際に、日比谷の交差点、朝日生命日比谷ビル(現、マリンビル)と、三信ビル(07年に解体)の間のコインパーキングに荷物の中継ポイントとして駐車されました。その3拠点を結んだ、とても狭いエリアを縦横無尽に走り回っていました。
エリアは、赤坂、浜松町、大手町、築地、麹町あたりで、日本銀行や東京証券取引所などは毎日行っていました。クライアントの所在地も、このあたりのエリアに10数社、クライアントリストといって渡されたA4の紙には、企業名は半分にも満たない程度でした。そのような状況で、ある時、青山ツインタワーに入っていた広告代理店が使いたいという問合せがあったんですが、『いやぁ~、青山ツインだろ、オーダーは欲しいけど、どこから行っても坂を上るじゃん!シンドイよなぁ~、どうするかなぁ~』と、ボスが話していたのを覚えています(笑)

その10数社のクライアントは、外資証券会社、広告代理店、外資PR会社などが中心で、同業に関しては、お届け先がかぶっている事が多かったので、クライアントはもちろんの事、お届け先の担当者の方々と親しくなるのに時間は掛からなかった。だから、デートにこぎつけたりする事もしばしばありましたし、同期のメンバーと競い合っていた(?)事もありました(笑)わたしが風邪をひいて休んでいると聞きつけ、漢方薬を調合して渡してくれた方もいれば、『お弁当作ったので取りに来てね』なんて方もいました。ホント、デリバリーの楽しさ以外に更なる楽しみがあり、毎日が楽しい時間でした。今ではとても良い思い出ですね。
それとは反面に、クライアント、お届け先が同じような感じだったので、デリバリー自体がマンネリ化してきてしまって、飽きてきてしまった時期がありました。それを克服する事に時間と労力を費やした覚えがあります。『えっ、どうやって克服したかって?』別の出会いを求め活動したことでしょうか(笑)

― Courierを立ち上げたきっかけは?立ち上げまでの経緯を教えて下さい
立ち上げたきっかけは、、、ズバリ、ノリと勢いってヤツです。また、お恥かしながら、正直なところ当時の環境から逃げ出しかったというのも、心の片隅にあったと感じています。

パイオニアであるティーサーブ社に勤めており、急激に成長を続ける状況の中、いつしか管理職というポジションに就いていました。管理職って聞くと、聞こえが良いのかも知れませんが、少数精鋭の組織において、オールマイティに効率良く、且つ柔軟に何でもこなさなければならなかった。色々と経験させてもらいましたが、慣れない事が多く、時間がいくらあっても足りない状況でした。
その業務の一つに、人事という重任を一任させてもらっていました。当時、いくら捌いても捌ききれないほど、日々オーダーが入ってくる状況。最盛期は月の半分は業務終了後、ひっきりなしに面接をしていた時期がありました。
個性を尊重としていた私の採用基準では、通用しなくなっていました。会社にとって必要と思って採用していた人材と、成長過程の組織におけるボスが求める人材との基準に大きなズレが生じてきていたんでしょうね。『カツが採用する人材は、危なっかしい』と。。。今では笑える内容ではありますが、当時のそのプレッシャーは計り知れませんでしたね。
ボスに好まれる人材、単純に目の前にあるオーダーをこなすためだけの増員、メッセンジャーもマニュアル化していく事が重要視される組織となっていったと感じました。

渋谷に拠点を置く、クーリエのオフィス
自分も『自分自身の素直な判断ができなくなってきている』と、切実に感じ、今までの経験を生かし、やりたい事、表現したい事、表現できる事をシンプルに最大限に実現できる組織を作り上げたい、そんな思いでCourierを立ち上げる決意をしました。

独立する決意から退職するまで、長い時間を必要としませんでした。2000年7月の海の日の前日に退職し、様々な事情を検討した結果、10月1日の開業と決め、活動し始めました。気が付くと開業まで3ヶ月間なかった。サービス内容も決めていない以前に、開業する手順は、ティーサーブ社退職後に本格的に調べる始末。そんな中、先ずは、醜く鈍った体を鍛えなおすところから始めました。クーリエはもう一人の出資者がいて(2004年1月退職)、共同経営で開業したのだけれども、その彼と毎朝、駒沢公園をランニング。走りながら必要事項を決定していきました。可能な限り現金は組織に費やそうと考えていたので1日2食。それまで、好んで食べたことのないバナナが主食でした。一生分を消費したと思います(笑)

当時の自宅(世田谷区野沢)で開業という案もありましたが、主要エリアよりあまりにも外れていたので、事務所をかまえる事にしたが、無職となった自分に、『これから開業するので事務所が借りたい』なんて、通用しなかった。いきなりつまずきました。しかも難易度高し。事務所が決まらなければ、住所も電話番号も確定できない、よって伝票もチラシも作れない。そんな状況だったのだけれども、スタートメンバーを残し、2000年のCMWCフィラデルフィア大会に出場を決定。しかもニューヨークでのプレイベントより参加で、3週間ほど渡米していました。
渡米中、不動産屋と、事務所の賃貸の保証人をお願いしていた兄との国際電話でのやり取り。後日来た電話料金の請求は軽く2万を超えていました。帰国後、楽しかった余韻に浸りなら、何とか偽りをもって(笑)事務所の賃貸契約は無事(?)に済みましたが、伝票が間に合わなく、開業3日間、伝票がない状態でやらざるを得ない事となりました。が、オーダーは2件しかありませんした。そんな、未熟な状態で開業に至ったわけです。

― 創業当時の苦労話などあれば教えてください
創業当時、何一つとっても苦労話になるのかもしれませんね。
計画的独立開業ではなかったので、十分な資金が用意できていなかった。そのような状態だったので、開業当初、デリバリー業務に不可欠な無線機を準備できなかった。無線を駆使し、与えられている時間内にいかに効率良く、多くのデリバリーをこなせるかが、メッセンジャーの技であり、醍醐味であるのだが、それができなかった。よって、無線機が無い事を前提にしたサービスを考えていました。
1人1デリバリーの速いサービス=高価
急を要さないゆっくりなサービス=安価
ダイレクトとワンデイと名付けた2種類の両極端過ぎるサービスでした。

 
当時の資金的事情という事もありましたが、シンプルに直行する速いサービス。そして、何よりも、『他社よりも速いサービスを実現するので高いのです』と、自信をもって売っていけるサービスをしたかった。飛び込み営業や、人脈を活用させてもらい、鼻息荒く案内をさせてもらいましたが、こちらの思いとは裏腹で、理解して頂ける企業は少なかった。
何もかもがゼロからのスタートで、理解をして利用してもらうまでに、多大な時間と労力を要しました。ティーサーブ社で真剣に努力をし、色々と経験させてもらったと思っていましたが、自分自身、組織に埋もれていたんでしょうね。
独立して気が付いた事・・・『自分の知識、経験の浅さと、実践力の少なさ』。
実際、今現在も苦労話は絶えませんよ。ただ、ありがたい事に、お客様をはじめ、スタッフ、そのほかまわりの方々に恵まれ、色々と勉強させてもらっています。苦労が楽しくなってきている実感はあります。常に修行させてもらっている感じですね。
― 会社としてのこだわり、理念、譲れない点、他社との最大の違いは何でしょうか?
メッセンジャーによる、デリバリーサービスであること。
物流業界における最速部門として適材適所の徹底をしていく事です。メッセンジャーの活躍すべきポジションで、サービスの質に重点を置き、より専門的なサービスを展開し、収益に繋げることです。

安売りはせず、謙虚な姿勢で、選ばれる企業として努力を惜しまず、選ぶ企業としてプライドをもつこと。他社との大きな違いは、対応エリアを明確に設定しているところです。
ご利用になる企業様からすれば、同業他社と比較してデメリットに感じられるところでもありますが、明確にしているからこそ我々の強みであり、企業様にとって最大のメリットに繋がると考えます。

― 代表として、所属メッセンジャーを業務以外の側面でもバックアップをされてますが、そこには何か思いなどあるのでしょうか?
ん~正直、バックアップしているとは思っていません。シンプルにメッセンジャーという職業、メッセンジャーという職人の可能性や将来性を見出していく為に、それらに繋がるであろう活動に、柔軟に受け入れているだけの事です。それは、自社所属のメッセンジャーに限らず、志の高いメッセンジャー個々の活動は、自分自身の励みになりますし、同様に楽しみは、自分の喜びになると思っています。
― 90年代からCMWCに積極的に参加されてますが、日本人としてはじめて参加された時のお話を聞かせてください
1995年、当時所属していたティーサーブ社のサポートを受けて、第3回目のトロント大会に参加しました。ティーサーブのボスと、同期の男性、当時では珍しかった女性のメッセンジャー、そして、このCMWCの存在を教えてくれたおばさん(わっ、怒られるかな!?/以下ビクトリア)の5人です。
「日本人初」と、言われてはいましたが、ベルリンで学生をしながらメッセンジャーをしていた、マサカズという日本人が居ましたので、厳密にいうとアジア圏初の参戦なんでしょうね。 当時を振り返ると、何もかもが「衝撃」以外の何ものでもなかったです。
1997年、CMWCバルセロナにて

乗り換えの飛行機が遅れ、トロントに到着したのは深夜。
ナビゲーターとして、ビクトリアがいたので、情報なんてほぼ調べていかなかったんですが、ナント、ビクトリアも情報という情報は持っていない。『とりあえずダウンタウンへ』これだけでした。何の情報もないまま、ダウンタウン行きのシャトルバスのチケットを購入し、ダウンタウンでも一番賑やかそうな場所、確かシェラトンの前で降ろしてもらった。

ホテルの前で、自転車を組んでいると、遠くからホイッスルの音がしたんです。で、気が付くと、ホイッスルの音と共に、メッセンジャーが集まってきたんです。気がつけば十数人に囲まれていました。その状況に、もう興奮して、ただただ震えてビデオを回していました。
ほとんどのヤツらは、体中にきれーにアートされていて、ビビリながらも片言の英単語で国際交流が始まったわけなのです。

そして、右も左もわからない、泊まるところも決まっていない我々に、「マイクの家なら泊まれるよ」と、さっさと我々の荷物を片付け、皆で運んでもらい、地元のメッセンジャーOBの家に案内してもらいました。

それと、われわれはMTBで行ったんですよ。しかもブロックタイヤで(笑)そんなヤツは、ほぼ居ないに等しい。それと、今では普通に売られているし、当たり前に履いていますが、なんと黒の短いソックス!これは当時、身近ではなかった。黒のソックスは、帰りロスに立ち寄り、自転車屋を始め色々なショップを回りまくって買い占めましたよ(笑)。
とにかく、昔話はキリがないので、別枠設けて下さい!(笑)

― 様々な面で衝撃的だったと。当時影響を受けたモノで、今でも持ち続けているモノってありますか?物だったり、気持ちの部分だったり
影響を受けたものという話しではないですが、持ち続けている『モノ』といったら、参戦するたびに貰ったり、トレードしたサイクルジャージですかね。最後に参加したのが03年なので、かなり年期の入ったモノばかりなってしまいましたが、今でも好んで着ています。その中には、袖がほつれてしまったり、メッセンジャーバックのベルトに擦れて左肩部分の生地が薄くなってしまったモノもありますが、捨てられないです。妻には迷惑がられてますが・・・。

そして、気持ちの部分といったら『ブレずにこの仕事を続けて行くんだ』っていう思いですかね。

― CMWCはメッセンジャーにとってどういう存在なのでしょう?
シンプルにいうと、年に一度のメッセンジャーの大祭典といったところでしょうね。
世界選手権といっても、競い合う事だけを目的としている訳ではないです。パーリィパーリィ!そちらの方がメインなのかも知れませんね。メッセンジャーである事の喜びや楽しさを生で感じられる存在といったところでしょうか。
正直なところ、CMWC自体、これといって特別なものとして考えてはいないのですが、気が付けば03年のシアトル大会以来、CMWCに参戦していないので、非常に寂しい思いをしています。何だかメッセンジャーとしての感が鈍るというか、衰退してきているというか。何だかメッセンジャーとしてフレッシュさを失っていく自分があるんです・・・。

95年、メッセンジャーとしてCMWCに出場し、世界の『生』のメッセンジャーを目の当たりにした時の衝撃。写真のイメージだけで東京で頑張っていた事が本当に嬉しく感動して、この仕事を続けていく決心をしました。時間が経って、街には自分以外に(笑)カッコ良いメッセンジャー増えた。いつしか、自分はそのカッコ良い彼らにCMWCを勧める側にいました。当時、自分自身が素直に感じたもの少しでも共有してもらって、東京のメッセンジャーの土台を固めたい気持ちで一杯でした。今も同様、これからも変わらないものです。メッセンジャーにとってCMWCの存在云々は、個々の価値観によって様々でしょうが、自分にとってCMWCは、シンプルに『メッセンジャーとして原点』といったところでしょうか。09年、CMWC東京の開催を支援します。

― Katzさんにとって、メッセンジャーの魅力とは?
メッセンジャーとしての魅力って、シンプルな仕事を、様々な状況や条件をリアルに受けて、必死に夢中になってできるところです。ストレスのない業務!
そして、同じ仕事を、同じような思いをもって、必死に生きている仲間が、国内はもちろん、世界中の各都市で同じように活躍しているという事実を知って生きているって事が、素直に嬉しいし、励みになるし、ホント魅力を感じます。
― 90年代から日本のメッセンジャー業界を見続けてきたわけですが、Katzさんから見て現在のメッセンジャー業界を取り巻く環境をどう思われますか?
当時と比べると、現在のメッセンジャーという仕事が取り巻く環境は、良くも悪くも確立し過ぎてしまっ ていると感じます。先ず、企業によって『メッセンジャーのお仕事は・・・』みたいな、あいさつの仕方から、荷物の引取りから受け渡しの段取り、昼食の取り方、待機の仕方、帰社したらなど、逐一事細かにマニュアル化されてしまっている。それを覚える事が必須で、それを覚えれば間違いは避けられ、マニュアル通りに動ける事が優秀なメッセンジャーと評価される。業務を効率良く遂行していく上で必要な事であるのはわかるのだけれども、何もかもがマニュアル化されていると、応用力に欠けると感じます。失敗して学ぶことってあるし、それがメッセンジャーって仕事だけに限らず大切なわけです。もっと自由に表現できる、するべき仕事が、しっかりとしたレールを敷かれている。それが間違いだとは言わないけれども、もっと個々を信じ自由に表現させてあげられる位の受け皿がないと、このメッセンジャーという仕事って、単なる超肉体労働になってしまいます。そこから生まれてくるものは限られて来るのではないでしょうか。マニュアル通りやっていてれば、安定した環境は維持できるかもしれませんが、逆にマニュアル自体が物事を複雑化してしまっていて、メッセンジャーとしてのシンプルさやリアルさを実感しにくい環境になっているのではないかと感じます。
 

また、現在、メッセンジャー業務に支障を来しているものとして、新たに立ち並ぶ近未来的ビルの存在です。当時、メッセンジャーであれば、企業やビルの入館に時間を取られる事は殆どありませんでした。企業だったら正面入口、ビルなら一番でかい入口。目的地に近づいたらとにかく立派な入口を探せば、大概は当たり。本当に分かりやすかった。綺麗な受付嬢(当然、毛深い守衛さんなんかも居ます)を横目に小洒落たトークをしながら記帳をして、バッジを貰って、一般エレベーターで目的フロアまで上がる事ができ、直接本人にお届け出来ていました。入館に余計な時間が掛からなかったので、1本1本のデリバリー時間が平均的でスケジュールが組みやすかった。自転車も比較的どこでも駐輪できたので、その入口までのアプローチも容易で、特にサービスの質においてはバイク便との差別化に繋がった要素のひとつでした。

そのような環境だったのですが、現在は、入館するにあたり、身分証明書の提示を求められたり、何度も記帳して、IDも何枚も持たないと目的のフロアまでたどり着けなかったり、エレベーターがなかなか来ないため、非常階段を使って目的のフロアまで行ったもののロックが掛かっていて、結局1階まで降りてエレベーターを待つ事になったり、エレベーターも『遅い』『来ない』『乗れない』貨物用、業者用と制限され、とにかく、いくら速く走って目的地たどり着いても、外部要因によって時間がかかる事が多くなりサービスに影響が出てくるようになってしまった。
物騒な世の中なので、セキュリティーの強化は理解できるのだけれども、無意味なチェックは煩わしいだ け。時間が掛かる分、その手間を請求できれば良いのですが、それどころか、この不安定な経済状況で、企業は経費削減で件数は減少、また、未だダンピング交渉が行われ料金も下がってきてしまっている始末。このような背景もメッセンジャー業務を複雑且つ、過酷にしていています。このような点では、残念ながら寂しい環境になってしまっていると切実に感じます。

また、当時、バイク便がメインだった環境でメッセンジャーという新たな存在として、社会にも会社にも自由な環境で真剣に思いっきり楽しんで表現させてもらっていました。当時、バイク便の価格って本当に高かった。2倍は大げさにしても、確実に1.5倍の料金設定だった。また、失礼な表現なのですが、中型二輪免許を持っていれば誰でもできるみたいな職業として存在していたと思っています。だから、当時では、メッセンジャーサービスは、価格も安く、元気でさわやか(?)な青年(?)が、汗を流して荷物を届ける場面は、企業にとって新鮮、且つ気分が良かったと思います。二十歳そこそこの小坊主が、ビックネーム企業のメイン受付にズカズカと当たり前に普通に入って行き、綺麗な受付嬢や、女性担当者と小洒落たトークができるわけですから、われわれも、デートする時と同じように、着るものに気を使い、しゃべりネタを仕込み、スキンケアも怠らず、口臭、体臭、鼻毛等々には細心の注意を図ってデリバリーを勤しんでいました。 そのような、背景の中での、自分自身、デリバリー業者的感覚を持っていなかったので、クライアントはもちろんの事、届け先の企業の方々が気にならないのが不自然だったと思います。届け先で声を掛けられ、一般的な会話から一歩進んで、自分なりにサービス内容や料金を案内すれば、印象は残せる訳です。そして、それがきっかけでオーダーに繋がる。まぎれもなく営業。当時、営業して会社のために売上を伸ばそうなんて感覚は、一切なかったかも知れません(笑)

とにかく、業務におけるメッセンジャーを取り巻く環境は、メッセンジャーが良くも悪くも増えすぎてしまい、バイク便を含めた業界が色々とやり過ぎてしまい、シンプルに受け入れられなくなってしまっていると感じます。何が正しい、これが間違いというものではないのですが、現在、このような対応(?)したら、ドン引きされる事が増えましたね(笑)負けませんが。
わたしにとって良い時期に、良い仲間とメッセンジャーという仕事をスタートできたなと、今でも感じています。

― メッセンジャーがより魅力的になるために「こうなって欲しい」というイメージはありますか?
鼻息荒く、何度も言ってしまいますが、メッセンジャーという仕事は、物流業界でも専門的な部門なのです。『職人』がこなすべき仕事だという事に自分自身が認識して、個々を確立して欲しいと考えます。やらされている感をもってデリバリーしているようでは、良いサービスは提供できません。また、走ることだけがメッセンジャーの仕事とは思ってもらいたくない。走る事は誰でもできますし、時間が経てば速く走れるようになります。でも、重要なのはそこだけではなく、1本のオーダーを取ってくる難しさ、1本のオーダーがきた時の嬉しさ、1本のオーダーがお金になる楽しみ、そういった過程を頭で理解するだけではなく、実践して結果を出していける『生きた職人』であってもらいたいと思うのです。それは会社という枠組みは関係ないです。

また、メッセンジャーだけでなく、それを取り巻く環境も重要だと思います。組織が、その『職人』を良識の元に、いかに自由に活動させ活躍の場を提供できるか、そして、その『職人』といかに信頼関係を基盤とし、公平なジャッジが出来る組織を形成できるかという事も重要。仲間と信頼関係が築けずに、クライアントから信用を得られるわけがないでしょ。メッセンジャーは、流行ではなく定番であって、プライドを持つ事は当然のことだけれども、外見だけ磨いて中身なしでは直ぐに見破られるだろうし、カッコつけても、実は、本人が思っているほど、世の中は気にしていない。何事も地に足をつけて真剣にやっていく姿勢を維持し、おちゃめな大人が集まる仕事でありたい。
ちょっとズレますが、個人的には、ドMでナルシスト、そして謙虚な人材が、メッセンジャーにマッチしているのではないかと思っています。『これが魅力的になるために・・・』に結びつくかは???ですが。

― メッセンジャーを象徴するアイテムの1つにメッセンジャーバッグがあります。メッセンジャーにとってはどういう存在なのでしょうか?また、バッグに対する想い、拘りがあれば教えてください
シンプルにメッセンジャーバックは、メッセンジャーとしてなくてはならないもの。バック無くして業務はできません。大工なのに鑿や金槌、美容師なのにシザーやコームを持っていないようなもの。
 

自分の場合、バックを背負うと『メッセンジャー』というスイッチだったり、ギアが入ります。変身した気分になります。
バックに対して特別なこだわりはないです。シンプル、且つタフであって、防水機能に対して配慮しているバックであれば、ブランドや流行は気にしていません。好きな色が赤なので、部分的にでも赤が入っている方が好みます。付け加えるなら、業務上、ピックアップに行ったものの、『サイズが大きいので運べません』なんて事があってはならないので、とにかくでかいバックが好きです。 現在、使用している『CRANK』のバックは特注で、作り手が『でかいけど大丈夫?』と確認したほど。とにかくでかいです。

メッセンジャーバックは、荷物が入って、膨らんでいたり、はみ出していたりした方が美しく見えると思っています。また、そういった状態のバックを背負っているメッセンジャーが、街と同化して1つの絵になるわけです。デリバリーの際は、ビルの窓ガラス等でバックの形、それを背負っている自分、そして、全体のバランス、これは必ずチェックします。これって、何だかんだこだわりだったりするのでしょうか?
『バックを見れば誰だかわかる』と、思わせるほど、その人の体の一部となり、キャリアや、姿勢や、努力など、素直に反映され、そのメッセンジャーの雰囲気や人間味をかもし出す存在ではないでしょうか。

― Katzさんが今まで使用してきた、歴代のメッセンジャーバッグを教えてください
 
メッセンジャーバッグは、数え切れないほど手にしました。その中でも大切にしているのは、業務を引退した初代、グローブキャンバス/マーチンです。この仕事を始めた時に使用していたものです。ほぼバッグとして機能がなくなってきているので観賞用です。これを見ると当時の様々な思い出が浮かび上がってきますね。

そして、業務でもプライベートでも、ずーっと愛用させてもらっているのが、Zoのウエストバッグです。これは、エリックに作ってもらったのではなくて、奥さんが作ったものです(その当時、エリックはバッグ制作をサボりがちだった・・・)。96年に譲ってもらったので、かれこれ12年は経つのかな?リフレクター(反射テープ)が、ボロボロになってしまった時、ちょうど友人がSFに行くって言うんで、エリックにリペアしてもらえるようをお願いしました。無事に戻ってはきたのですが、ものすごい縫い付け方でしたね。職人エリックの技ということで・・・(笑)

― そのマーチンにまつわる様々な思い出というのは?
はい、先ほどお話しました業務を引退した初代マーチン。フラップの端に穴が空いてしまっています。
この穴は、当時、全盛期だったバイク便はボックスにそのまま入れるためか、ポスターを丸めたものや、何の補強もしていないフィルムなど、筒状になった荷物がそのまま出てくる事多かった。

我々は、バックに入れて運ぶため、そのままでは、荷物が潰れたり、折れたりすると思い、自分なりに気を利かせてダンボール素材の筒を自分のオプションとしてバックに忍ばせていたんです。その筒がバックの幅よりちょっと長く、バックの中で斜めに収納されていたんですが、バックのふたに常にあたっていたらしく、ある時ズボッと穴が空いてしまったわけです。いわば、その穴は仕事に対する謙虚(?)な姿勢によるものなのです(笑)。とは言え、その穴はかなりショックでしたが、その後も、しばらくの間は、初代マーチンと共にデリバリーに勤しんでいました。さすがに穴も大きくなってきて、雨が凌げなくなってきたので、泣く泣くデリバリー仕様としては引退。プライベートで使っていたのですが、今度は底にまで穴が空いて、モノが落ちないか気にするようになるレベルになったので、やむを得ず引退し観賞用になってしまいました。

2000年、ニューヨークのメッセンジャーが、ボロボロになったマーチンの中に、新しいマーチンを入れてフチを縫い付けて、二個一にしたリメイクマーチンを見た時は感動しました。自分も真似しようと試みましたが、その時にはマーチンも希少になっていまして、オリジナルを二個一にする勇気は出ませんでした(苦笑)

― 最後に、Courierの今後の目標、目指すところを教えてください
メッセンジャー会社として
職人メッセンジャーの育成。
職人メッセンジャーの活躍の場の提供。
質の高いサービスの追及、徹底、維持。
メッセンジャー会社として新たな楽しい事業展開。

社会的にメッセンジャーとは職人職であると認知されるほど実績をつくり、メッセンジャーとしても、ビジネスとしても特化させ、そこからあらたな可能性を見出し、色々と発信していきたいです。

― ありがとうございました!!

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― まずは、メッセンジャーという職業を始められたのはいつからですか?また、その動機も聞かせてください
1992年4月からです。
動機はいたってシンプルで、夜間の学校に通う事になり、昼間は思いっきり東京のど真ん中で働ける仕事をしたいと思っていました。 当時、火曜と金曜に発売されていた求人誌を毎回購入していて、毎回同じような情報ばかりだったので、半ばあきらめモードだったのですが、ある時の情報誌を見ていたら居眠りをしてしまい、目を覚ました時に指が挟まっていたページがあったんです。開いてみると『自転車に跨る一匹狼』ってキャッチが目に飛び込んできて、、。

確か一番小さい広告だったんですが、メッセンジャーバック、JIROのヘルメット、マウンテンバイク(ロードレーサーだったかな?)これがニューヨークのメッセンジャースタイル!小さなスペースにみっちり詰め込んで書かれていたのを覚えています。
『メッセンジャー』って言葉も、ましてや職業だなんて、全く知りませんでした。 ホント、この小さなスペースにこの詰め込まれた言葉一つひとつがカッコよく感じ、直ぐに連絡しました。 面接までたどり着くには少々困難がありましたが、半ば強引な展開で面接にたどりつく事ができ、採用して頂きました。
ティーサーブ社における、アルバイト一期生とされています。メッセンジャーNo,005。

― 当時はメッセンジャーという職業そのものが一般的に認知されていなかった時代でしたよね?
そう、一般的に認知はされていなかったと思いますが、当時、所属したティーサーブ社の他に、野坂セブンという運送会社の自転車部門の輪急便。丸の内の国際ビルに潜めていた、痩せたスーパーマリオの様な容姿で、メッセンジャーバックを背負い、マウンテンバイクに乗ったどこかの企業と契約していたと思われる個人のメッセンジャーの方。そして、ママチャリで有価証券を専門で運んでいた、証券会社をリタイヤ(?)された高齢の方々が属していたシティサービスという会社など、私の知っている限りでもこれらの存在がありました。
メッセンジャーという職業も、存在もイマイチ知らなかった自分が、求人広告の『ニューヨークのメッセンジャースタイル!』という言葉だけでメッセンジャーを想像し、彼らを横目で見つつ『あいつらよりもカッコ良く、速くデリバリーしてやる!』って、その意識だけは過剰にありましたね。
 

また、当時、西新橋と赤坂にあった二つの事務所の他に、移動荷物置き場的存在でマークIIのライトバン(懐かしい響き)がありました。マークIIは、月曜日の定期便の際に、日比谷の交差点、朝日生命日比谷ビル(現、マリンビル)と、三信ビル(07年に解体)の間のコインパーキングに荷物の中継ポイントとして駐車されました。その3拠点を結んだ、とても狭いエリアを縦横無尽に走り回っていました。
エリアは、赤坂、浜松町、大手町、築地、麹町あたりで、日本銀行や東京証券取引所などは毎日行っていました。クライアントの所在地も、このあたりのエリアに10数社、クライアントリストといって渡されたA4の紙には、企業名は半分にも満たない程度でした。そのような状況で、ある時、青山ツインタワーに入っていた広告代理店が使いたいという問合せがあったんですが、『いやぁ~、青山ツインだろ、オーダーは欲しいけど、どこから行っても坂を上るじゃん!シンドイよなぁ~、どうするかなぁ~』と、ボスが話していたのを覚えています(笑)

その10数社のクライアントは、外資証券会社、広告代理店、外資PR会社などが中心で、同業に関しては、お届け先がかぶっている事が多かったので、クライアントはもちろんの事、お届け先の担当者の方々と親しくなるのに時間は掛からなかった。だから、デートにこぎつけたりする事もしばしばありましたし、同期のメンバーと競い合っていた(?)事もありました(笑)わたしが風邪をひいて休んでいると聞きつけ、漢方薬を調合して渡してくれた方もいれば、『お弁当作ったので取りに来てね』なんて方もいました。ホント、デリバリーの楽しさ以外に更なる楽しみがあり、毎日が楽しい時間でした。今ではとても良い思い出ですね。
それとは反面に、クライアント、お届け先が同じような感じだったので、デリバリー自体がマンネリ化してきてしまって、飽きてきてしまった時期がありました。それを克服する事に時間と労力を費やした覚えがあります。『えっ、どうやって克服したかって?』別の出会いを求め活動したことでしょうか(笑)

― Courierを立ち上げたきっかけは?立ち上げまでの経緯を教えて下さい
立ち上げたきっかけは、、、ズバリ、ノリと勢いってヤツです。また、お恥かしながら、正直なところ当時の環境から逃げ出しかったというのも、心の片隅にあったと感じています。

パイオニアであるティーサーブ社に勤めており、急激に成長を続ける状況の中、いつしか管理職というポジションに就いていました。管理職って聞くと、聞こえが良いのかも知れませんが、少数精鋭の組織において、オールマイティに効率良く、且つ柔軟に何でもこなさなければならなかった。色々と経験させてもらいましたが、慣れない事が多く、時間がいくらあっても足りない状況でした。
その業務の一つに、人事という重任を一任させてもらっていました。当時、いくら捌いても捌ききれないほど、日々オーダーが入ってくる状況。最盛期は月の半分は業務終了後、ひっきりなしに面接をしていた時期がありました。
個性を尊重としていた私の採用基準では、通用しなくなっていました。会社にとって必要と思って採用していた人材と、成長過程の組織におけるボスが求める人材との基準に大きなズレが生じてきていたんでしょうね。『カツが採用する人材は、危なっかしい』と。。。今では笑える内容ではありますが、当時のそのプレッシャーは計り知れませんでしたね。
ボスに好まれる人材、単純に目の前にあるオーダーをこなすためだけの増員、メッセンジャーもマニュアル化していく事が重要視される組織となっていったと感じました。

渋谷に拠点を置く、クーリエのオフィス
自分も『自分自身の素直な判断ができなくなってきている』と、切実に感じ、今までの経験を生かし、やりたい事、表現したい事、表現できる事をシンプルに最大限に実現できる組織を作り上げたい、そんな思いでCourierを立ち上げる決意をしました。

独立する決意から退職するまで、長い時間を必要としませんでした。2000年7月の海の日の前日に退職し、様々な事情を検討した結果、10月1日の開業と決め、活動し始めました。気が付くと開業まで3ヶ月間なかった。サービス内容も決めていない以前に、開業する手順は、ティーサーブ社退職後に本格的に調べる始末。そんな中、先ずは、醜く鈍った体を鍛えなおすところから始めました。クーリエはもう一人の出資者がいて(2004年1月退職)、共同経営で開業したのだけれども、その彼と毎朝、駒沢公園をランニング。走りながら必要事項を決定していきました。可能な限り現金は組織に費やそうと考えていたので1日2食。それまで、好んで食べたことのないバナナが主食でした。一生分を消費したと思います(笑)

当時の自宅(世田谷区野沢)で開業という案もありましたが、主要エリアよりあまりにも外れていたので、事務所をかまえる事にしたが、無職となった自分に、『これから開業するので事務所が借りたい』なんて、通用しなかった。いきなりつまずきました。しかも難易度高し。事務所が決まらなければ、住所も電話番号も確定できない、よって伝票もチラシも作れない。そんな状況だったのだけれども、スタートメンバーを残し、2000年のCMWCフィラデルフィア大会に出場を決定。しかもニューヨークでのプレイベントより参加で、3週間ほど渡米していました。
渡米中、不動産屋と、事務所の賃貸の保証人をお願いしていた兄との国際電話でのやり取り。後日来た電話料金の請求は軽く2万を超えていました。帰国後、楽しかった余韻に浸りなら、何とか偽りをもって(笑)事務所の賃貸契約は無事(?)に済みましたが、伝票が間に合わなく、開業3日間、伝票がない状態でやらざるを得ない事となりました。が、オーダーは2件しかありませんした。そんな、未熟な状態で開業に至ったわけです。

― 創業当時の苦労話などあれば教えてください
創業当時、何一つとっても苦労話になるのかもしれませんね。
計画的独立開業ではなかったので、十分な資金が用意できていなかった。そのような状態だったので、開業当初、デリバリー業務に不可欠な無線機を準備できなかった。無線を駆使し、与えられている時間内にいかに効率良く、多くのデリバリーをこなせるかが、メッセンジャーの技であり、醍醐味であるのだが、それができなかった。よって、無線機が無い事を前提にしたサービスを考えていました。
1人1デリバリーの速いサービス=高価
急を要さないゆっくりなサービス=安価
ダイレクトとワンデイと名付けた2種類の両極端過ぎるサービスでした。

 
当時の資金的事情という事もありましたが、シンプルに直行する速いサービス。そして、何よりも、『他社よりも速いサービスを実現するので高いのです』と、自信をもって売っていけるサービスをしたかった。飛び込み営業や、人脈を活用させてもらい、鼻息荒く案内をさせてもらいましたが、こちらの思いとは裏腹で、理解して頂ける企業は少なかった。
何もかもがゼロからのスタートで、理解をして利用してもらうまでに、多大な時間と労力を要しました。ティーサーブ社で真剣に努力をし、色々と経験させてもらったと思っていましたが、自分自身、組織に埋もれていたんでしょうね。
独立して気が付いた事・・・『自分の知識、経験の浅さと、実践力の少なさ』。
実際、今現在も苦労話は絶えませんよ。ただ、ありがたい事に、お客様をはじめ、スタッフ、そのほかまわりの方々に恵まれ、色々と勉強させてもらっています。苦労が楽しくなってきている実感はあります。常に修行させてもらっている感じですね。
― 会社としてのこだわり、理念、譲れない点、他社との最大の違いは何でしょうか?
メッセンジャーによる、デリバリーサービスであること。
物流業界における最速部門として適材適所の徹底をしていく事です。メッセンジャーの活躍すべきポジションで、サービスの質に重点を置き、より専門的なサービスを展開し、収益に繋げることです。

安売りはせず、謙虚な姿勢で、選ばれる企業として努力を惜しまず、選ぶ企業としてプライドをもつこと。他社との大きな違いは、対応エリアを明確に設定しているところです。
ご利用になる企業様からすれば、同業他社と比較してデメリットに感じられるところでもありますが、明確にしているからこそ我々の強みであり、企業様にとって最大のメリットに繋がると考えます。

― 代表として、所属メッセンジャーを業務以外の側面でもバックアップをされてますが、そこには何か思いなどあるのでしょうか?
ん~正直、バックアップしているとは思っていません。シンプルにメッセンジャーという職業、メッセンジャーという職人の可能性や将来性を見出していく為に、それらに繋がるであろう活動に、柔軟に受け入れているだけの事です。それは、自社所属のメッセンジャーに限らず、志の高いメッセンジャー個々の活動は、自分自身の励みになりますし、同様に楽しみは、自分の喜びになると思っています。
― 90年代からCMWCに積極的に参加されてますが、日本人としてはじめて参加された時のお話を聞かせてください
1995年、当時所属していたティーサーブ社のサポートを受けて、第3回目のトロント大会に参加しました。ティーサーブのボスと、同期の男性、当時では珍しかった女性のメッセンジャー、そして、このCMWCの存在を教えてくれたおばさん(わっ、怒られるかな!?/以下ビクトリア)の5人です。
「日本人初」と、言われてはいましたが、ベルリンで学生をしながらメッセンジャーをしていた、マサカズという日本人が居ましたので、厳密にいうとアジア圏初の参戦なんでしょうね。 当時を振り返ると、何もかもが「衝撃」以外の何ものでもなかったです。
1997年、CMWCバルセロナにて

乗り換えの飛行機が遅れ、トロントに到着したのは深夜。
ナビゲーターとして、ビクトリアがいたので、情報なんてほぼ調べていかなかったんですが、ナント、ビクトリアも情報という情報は持っていない。『とりあえずダウンタウンへ』これだけでした。何の情報もないまま、ダウンタウン行きのシャトルバスのチケットを購入し、ダウンタウンでも一番賑やかそうな場所、確かシェラトンの前で降ろしてもらった。

ホテルの前で、自転車を組んでいると、遠くからホイッスルの音がしたんです。で、気が付くと、ホイッスルの音と共に、メッセンジャーが集まってきたんです。気がつけば十数人に囲まれていました。その状況に、もう興奮して、ただただ震えてビデオを回していました。
ほとんどのヤツらは、体中にきれーにアートされていて、ビビリながらも片言の英単語で国際交流が始まったわけなのです。

そして、右も左もわからない、泊まるところも決まっていない我々に、「マイクの家なら泊まれるよ」と、さっさと我々の荷物を片付け、皆で運んでもらい、地元のメッセンジャーOBの家に案内してもらいました。

それと、われわれはMTBで行ったんですよ。しかもブロックタイヤで(笑)そんなヤツは、ほぼ居ないに等しい。それと、今では普通に売られているし、当たり前に履いていますが、なんと黒の短いソックス!これは当時、身近ではなかった。黒のソックスは、帰りロスに立ち寄り、自転車屋を始め色々なショップを回りまくって買い占めましたよ(笑)。
とにかく、昔話はキリがないので、別枠設けて下さい!(笑)

― 様々な面で衝撃的だったと。当時影響を受けたモノで、今でも持ち続けているモノってありますか?物だったり、気持ちの部分だったり
影響を受けたものという話しではないですが、持ち続けている『モノ』といったら、参戦するたびに貰ったり、トレードしたサイクルジャージですかね。最後に参加したのが03年なので、かなり年期の入ったモノばかりなってしまいましたが、今でも好んで着ています。その中には、袖がほつれてしまったり、メッセンジャーバックのベルトに擦れて左肩部分の生地が薄くなってしまったモノもありますが、捨てられないです。妻には迷惑がられてますが・・・。

そして、気持ちの部分といったら『ブレずにこの仕事を続けて行くんだ』っていう思いですかね。

― CMWCはメッセンジャーにとってどういう存在なのでしょう?
シンプルにいうと、年に一度のメッセンジャーの大祭典といったところでしょうね。
世界選手権といっても、競い合う事だけを目的としている訳ではないです。パーリィパーリィ!そちらの方がメインなのかも知れませんね。メッセンジャーである事の喜びや楽しさを生で感じられる存在といったところでしょうか。
正直なところ、CMWC自体、これといって特別なものとして考えてはいないのですが、気が付けば03年のシアトル大会以来、CMWCに参戦していないので、非常に寂しい思いをしています。何だかメッセンジャーとしての感が鈍るというか、衰退してきているというか。何だかメッセンジャーとしてフレッシュさを失っていく自分があるんです・・・。

95年、メッセンジャーとしてCMWCに出場し、世界の『生』のメッセンジャーを目の当たりにした時の衝撃。写真のイメージだけで東京で頑張っていた事が本当に嬉しく感動して、この仕事を続けていく決心をしました。時間が経って、街には自分以外に(笑)カッコ良いメッセンジャー増えた。いつしか、自分はそのカッコ良い彼らにCMWCを勧める側にいました。当時、自分自身が素直に感じたもの少しでも共有してもらって、東京のメッセンジャーの土台を固めたい気持ちで一杯でした。今も同様、これからも変わらないものです。メッセンジャーにとってCMWCの存在云々は、個々の価値観によって様々でしょうが、自分にとってCMWCは、シンプルに『メッセンジャーとして原点』といったところでしょうか。09年、CMWC東京の開催を支援します。

― Katzさんにとって、メッセンジャーの魅力とは?
メッセンジャーとしての魅力って、シンプルな仕事を、様々な状況や条件をリアルに受けて、必死に夢中になってできるところです。ストレスのない業務!
そして、同じ仕事を、同じような思いをもって、必死に生きている仲間が、国内はもちろん、世界中の各都市で同じように活躍しているという事実を知って生きているって事が、素直に嬉しいし、励みになるし、ホント魅力を感じます。
― 90年代から日本のメッセンジャー業界を見続けてきたわけですが、Katzさんから見て現在のメッセンジャー業界を取り巻く環境をどう思われますか?
当時と比べると、現在のメッセンジャーという仕事が取り巻く環境は、良くも悪くも確立し過ぎてしまっ ていると感じます。先ず、企業によって『メッセンジャーのお仕事は・・・』みたいな、あいさつの仕方から、荷物の引取りから受け渡しの段取り、昼食の取り方、待機の仕方、帰社したらなど、逐一事細かにマニュアル化されてしまっている。それを覚える事が必須で、それを覚えれば間違いは避けられ、マニュアル通りに動ける事が優秀なメッセンジャーと評価される。業務を効率良く遂行していく上で必要な事であるのはわかるのだけれども、何もかもがマニュアル化されていると、応用力に欠けると感じます。失敗して学ぶことってあるし、それがメッセンジャーって仕事だけに限らず大切なわけです。もっと自由に表現できる、するべき仕事が、しっかりとしたレールを敷かれている。それが間違いだとは言わないけれども、もっと個々を信じ自由に表現させてあげられる位の受け皿がないと、このメッセンジャーという仕事って、単なる超肉体労働になってしまいます。そこから生まれてくるものは限られて来るのではないでしょうか。マニュアル通りやっていてれば、安定した環境は維持できるかもしれませんが、逆にマニュアル自体が物事を複雑化してしまっていて、メッセンジャーとしてのシンプルさやリアルさを実感しにくい環境になっているのではないかと感じます。
 

また、現在、メッセンジャー業務に支障を来しているものとして、新たに立ち並ぶ近未来的ビルの存在です。当時、メッセンジャーであれば、企業やビルの入館に時間を取られる事は殆どありませんでした。企業だったら正面入口、ビルなら一番でかい入口。目的地に近づいたらとにかく立派な入口を探せば、大概は当たり。本当に分かりやすかった。綺麗な受付嬢(当然、毛深い守衛さんなんかも居ます)を横目に小洒落たトークをしながら記帳をして、バッジを貰って、一般エレベーターで目的フロアまで上がる事ができ、直接本人にお届け出来ていました。入館に余計な時間が掛からなかったので、1本1本のデリバリー時間が平均的でスケジュールが組みやすかった。自転車も比較的どこでも駐輪できたので、その入口までのアプローチも容易で、特にサービスの質においてはバイク便との差別化に繋がった要素のひとつでした。

そのような環境だったのですが、現在は、入館するにあたり、身分証明書の提示を求められたり、何度も記帳して、IDも何枚も持たないと目的のフロアまでたどり着けなかったり、エレベーターがなかなか来ないため、非常階段を使って目的のフロアまで行ったもののロックが掛かっていて、結局1階まで降りてエレベーターを待つ事になったり、エレベーターも『遅い』『来ない』『乗れない』貨物用、業者用と制限され、とにかく、いくら速く走って目的地たどり着いても、外部要因によって時間がかかる事が多くなりサービスに影響が出てくるようになってしまった。
物騒な世の中なので、セキュリティーの強化は理解できるのだけれども、無意味なチェックは煩わしいだ け。時間が掛かる分、その手間を請求できれば良いのですが、それどころか、この不安定な経済状況で、企業は経費削減で件数は減少、また、未だダンピング交渉が行われ料金も下がってきてしまっている始末。このような背景もメッセンジャー業務を複雑且つ、過酷にしていています。このような点では、残念ながら寂しい環境になってしまっていると切実に感じます。

また、当時、バイク便がメインだった環境でメッセンジャーという新たな存在として、社会にも会社にも自由な環境で真剣に思いっきり楽しんで表現させてもらっていました。当時、バイク便の価格って本当に高かった。2倍は大げさにしても、確実に1.5倍の料金設定だった。また、失礼な表現なのですが、中型二輪免許を持っていれば誰でもできるみたいな職業として存在していたと思っています。だから、当時では、メッセンジャーサービスは、価格も安く、元気でさわやか(?)な青年(?)が、汗を流して荷物を届ける場面は、企業にとって新鮮、且つ気分が良かったと思います。二十歳そこそこの小坊主が、ビックネーム企業のメイン受付にズカズカと当たり前に普通に入って行き、綺麗な受付嬢や、女性担当者と小洒落たトークができるわけですから、われわれも、デートする時と同じように、着るものに気を使い、しゃべりネタを仕込み、スキンケアも怠らず、口臭、体臭、鼻毛等々には細心の注意を図ってデリバリーを勤しんでいました。 そのような、背景の中での、自分自身、デリバリー業者的感覚を持っていなかったので、クライアントはもちろんの事、届け先の企業の方々が気にならないのが不自然だったと思います。届け先で声を掛けられ、一般的な会話から一歩進んで、自分なりにサービス内容や料金を案内すれば、印象は残せる訳です。そして、それがきっかけでオーダーに繋がる。まぎれもなく営業。当時、営業して会社のために売上を伸ばそうなんて感覚は、一切なかったかも知れません(笑)

とにかく、業務におけるメッセンジャーを取り巻く環境は、メッセンジャーが良くも悪くも増えすぎてしまい、バイク便を含めた業界が色々とやり過ぎてしまい、シンプルに受け入れられなくなってしまっていると感じます。何が正しい、これが間違いというものではないのですが、現在、このような対応(?)したら、ドン引きされる事が増えましたね(笑)負けませんが。
わたしにとって良い時期に、良い仲間とメッセンジャーという仕事をスタートできたなと、今でも感じています。

― メッセンジャーがより魅力的になるために「こうなって欲しい」というイメージはありますか?
鼻息荒く、何度も言ってしまいますが、メッセンジャーという仕事は、物流業界でも専門的な部門なのです。『職人』がこなすべき仕事だという事に自分自身が認識して、個々を確立して欲しいと考えます。やらされている感をもってデリバリーしているようでは、良いサービスは提供できません。また、走ることだけがメッセンジャーの仕事とは思ってもらいたくない。走る事は誰でもできますし、時間が経てば速く走れるようになります。でも、重要なのはそこだけではなく、1本のオーダーを取ってくる難しさ、1本のオーダーがきた時の嬉しさ、1本のオーダーがお金になる楽しみ、そういった過程を頭で理解するだけではなく、実践して結果を出していける『生きた職人』であってもらいたいと思うのです。それは会社という枠組みは関係ないです。

また、メッセンジャーだけでなく、それを取り巻く環境も重要だと思います。組織が、その『職人』を良識の元に、いかに自由に活動させ活躍の場を提供できるか、そして、その『職人』といかに信頼関係を基盤とし、公平なジャッジが出来る組織を形成できるかという事も重要。仲間と信頼関係が築けずに、クライアントから信用を得られるわけがないでしょ。メッセンジャーは、流行ではなく定番であって、プライドを持つ事は当然のことだけれども、外見だけ磨いて中身なしでは直ぐに見破られるだろうし、カッコつけても、実は、本人が思っているほど、世の中は気にしていない。何事も地に足をつけて真剣にやっていく姿勢を維持し、おちゃめな大人が集まる仕事でありたい。
ちょっとズレますが、個人的には、ドMでナルシスト、そして謙虚な人材が、メッセンジャーにマッチしているのではないかと思っています。『これが魅力的になるために・・・』に結びつくかは???ですが。

― メッセンジャーを象徴するアイテムの1つにメッセンジャーバッグがあります。メッセンジャーにとってはどういう存在なのでしょうか?また、バッグに対する想い、拘りがあれば教えてください
シンプルにメッセンジャーバックは、メッセンジャーとしてなくてはならないもの。バック無くして業務はできません。大工なのに鑿や金槌、美容師なのにシザーやコームを持っていないようなもの。
 

自分の場合、バックを背負うと『メッセンジャー』というスイッチだったり、ギアが入ります。変身した気分になります。
バックに対して特別なこだわりはないです。シンプル、且つタフであって、防水機能に対して配慮しているバックであれば、ブランドや流行は気にしていません。好きな色が赤なので、部分的にでも赤が入っている方が好みます。付け加えるなら、業務上、ピックアップに行ったものの、『サイズが大きいので運べません』なんて事があってはならないので、とにかくでかいバックが好きです。 現在、使用している『CRANK』のバックは特注で、作り手が『でかいけど大丈夫?』と確認したほど。とにかくでかいです。

メッセンジャーバックは、荷物が入って、膨らんでいたり、はみ出していたりした方が美しく見えると思っています。また、そういった状態のバックを背負っているメッセンジャーが、街と同化して1つの絵になるわけです。デリバリーの際は、ビルの窓ガラス等でバックの形、それを背負っている自分、そして、全体のバランス、これは必ずチェックします。これって、何だかんだこだわりだったりするのでしょうか?
『バックを見れば誰だかわかる』と、思わせるほど、その人の体の一部となり、キャリアや、姿勢や、努力など、素直に反映され、そのメッセンジャーの雰囲気や人間味をかもし出す存在ではないでしょうか。

― Katzさんが今まで使用してきた、歴代のメッセンジャーバッグを教えてください
 
メッセンジャーバッグは、数え切れないほど手にしました。その中でも大切にしているのは、業務を引退した初代、グローブキャンバス/マーチンです。この仕事を始めた時に使用していたものです。ほぼバッグとして機能がなくなってきているので観賞用です。これを見ると当時の様々な思い出が浮かび上がってきますね。

そして、業務でもプライベートでも、ずーっと愛用させてもらっているのが、Zoのウエストバッグです。これは、エリックに作ってもらったのではなくて、奥さんが作ったものです(その当時、エリックはバッグ制作をサボりがちだった・・・)。96年に譲ってもらったので、かれこれ12年は経つのかな?リフレクター(反射テープ)が、ボロボロになってしまった時、ちょうど友人がSFに行くって言うんで、エリックにリペアしてもらえるようをお願いしました。無事に戻ってはきたのですが、ものすごい縫い付け方でしたね。職人エリックの技ということで・・・(笑)

― そのマーチンにまつわる様々な思い出というのは?
はい、先ほどお話しました業務を引退した初代マーチン。フラップの端に穴が空いてしまっています。
この穴は、当時、全盛期だったバイク便はボックスにそのまま入れるためか、ポスターを丸めたものや、何の補強もしていないフィルムなど、筒状になった荷物がそのまま出てくる事多かった。

我々は、バックに入れて運ぶため、そのままでは、荷物が潰れたり、折れたりすると思い、自分なりに気を利かせてダンボール素材の筒を自分のオプションとしてバックに忍ばせていたんです。その筒がバックの幅よりちょっと長く、バックの中で斜めに収納されていたんですが、バックのふたに常にあたっていたらしく、ある時ズボッと穴が空いてしまったわけです。いわば、その穴は仕事に対する謙虚(?)な姿勢によるものなのです(笑)。とは言え、その穴はかなりショックでしたが、その後も、しばらくの間は、初代マーチンと共にデリバリーに勤しんでいました。さすがに穴も大きくなってきて、雨が凌げなくなってきたので、泣く泣くデリバリー仕様としては引退。プライベートで使っていたのですが、今度は底にまで穴が空いて、モノが落ちないか気にするようになるレベルになったので、やむを得ず引退し観賞用になってしまいました。

2000年、ニューヨークのメッセンジャーが、ボロボロになったマーチンの中に、新しいマーチンを入れてフチを縫い付けて、二個一にしたリメイクマーチンを見た時は感動しました。自分も真似しようと試みましたが、その時にはマーチンも希少になっていまして、オリジナルを二個一にする勇気は出ませんでした(苦笑)

― 最後に、Courierの今後の目標、目指すところを教えてください
メッセンジャー会社として
職人メッセンジャーの育成。
職人メッセンジャーの活躍の場の提供。
質の高いサービスの追及、徹底、維持。
メッセンジャー会社として新たな楽しい事業展開。

社会的にメッセンジャーとは職人職であると認知されるほど実績をつくり、メッセンジャーとしても、ビジネスとしても特化させ、そこからあらたな可能性を見出し、色々と発信していきたいです。

― ありがとうございました!!

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